自由にしかし楽しく!クラシック音楽

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『ベートーヴェンの愛弟子 フェルディナント・リースの数奇なる運命』かげはら史帆(著) 読みました

今回ご紹介するのは『ベートーヴェンの愛弟子 フェルディナント・リースの数奇なる運命』かげはら史帆(著) です。2020年4月 春秋社。

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かげはら史帆さんの文壇デビュー作は『ベートーヴェン捏造 名プロデューサーは嘘をつく』(2018年10月 柏書房)。シンドラーによる「会話帳改竄事件」を描いた御本で、私はハラハラしながら夢中になって読みました。感想も弊ブログにアップしています。以下のリンクからどうぞ。 

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今回は待ちに待った2冊目の御本です。私は早い段階で通販サイトで予約を入れ、届いたら一気に読んでしまいました。そうそうこの感じ!お話に引き込む筆力はさすがです。まだまだ読みたいので、第3弾以降もぜひお願いします。希望は言ってみる!

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↑今回の御本はこちらの連載「フェルディナント・リース物語 かげはら史帆」がベースとなっていると思われます。未読のかたはぜひご一読ください。web掲載の文章は比較的淡々としている印象(あくまで私見)ですが、著書はかなりドラマチックな展開になっていて、言うまでも無く分量・内容ともに充実しています。そして巻末の資料がすごい!年表や参考文献だけでなく、全作品リスト(!)に録音紹介まで。フェルディナント・リースの「おそらく世界初の伝記」は、資料としても大変重要なものになっています。超有名で研究者も多いベートーヴェンとは勝手が違い、調査や資料集めは大変だったことと存じます。頭が下がります。

ところで、フェルディナント・リース is 誰?と思ったかたもおられるかもしれません(失礼)。フェルディナント・リース(1784-1838)は「あの」ベートーヴェンの弟子の一人で、同時期の弟子仲間にはピアノ教則本で有名なカール・チェルニーがいます。フェルディナント・リースの名前は初耳だったかた、安心してください。私だって知ったきっかけはマンガ本です。NAXOS IAPAN(著)、IKE(イラスト)による『運命と呼ばないで ベートーヴェン4コマ劇場』(2004年4月 学研プラス)。フェルディナント・リース目線でアラサーのベートーヴェンと仲間たちのドタバタ大活躍を描いた、もうページをめくる度に爆笑する楽しい本です。私はこちらの感想文もかなり前に書きました(※レビュー記事へのリンクは上の『ベートーヴェン捏造』の感想記事にあります)。

私は『ベートーヴェンの愛弟子 フェルディナント・リースの数奇なる運命』を読んで、「運よば」のリースくんがこんなに大活躍してくれるなんて!と、なんだかずっと成長を見守ってきた親戚のおばちゃん目線で胸アツでした。そして「運よば」を読み返してみたのですが、マンガ初見ではよくわからなかった部分の答えがわかり(例えばベートーヴェンがフェルディナントに「お前はウィーンより他の場所が向いているんじゃねーかと思った」と言ったところ、ベートーヴェンが親友ヴェーゲラー宛の手紙に「パリの方がいい」と理由付きで書いてあったんですね!)、色々と繋がって超気持ちよかったです!ぜひ読み比べてみるのをオススメします。

ちなみに『運命と呼ばないで』の原案となったのは、フェルディナント・リースとフランツ・ゲルハルト・ヴェーゲラーの共著『ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンに関する覚書』。この本がソースとなった逸話には「ハイリゲンシュタットの散歩道で、フェルディナントには聞こえた『羊飼いの笛の音』がベートーヴェンには聞こえなかった」、「ナポレオンが皇帝になったことをフェルディナントが告げると、ベートーヴェンは激怒し交響曲第3番のタイトルを『英雄』に変えた」といったものがあります。ちなみに私はベートーヴェンの子供向け伝記漫画を図書館で片っ端から借りて読んだのですが、これらの逸話が描かれているシーンにはたいてい天パの気が弱そうな青年フェルディナントが登場します。それだけなら良いのです。問題なのは「運命はこのように扉を叩く」を聞き出したり、最晩年の病床にあるベートーヴェンのそばにいたりといった、シンドラーの役目を吸収してまとめられている残念な例が少なくないこと(本によってはその便利な脇役はホルツだったりもします)。脇役をまとめるのは伝記漫画では「あるある」とはいえ、これはすなわちフェルディナント・リースの知名度が低いから出来る芸当なわけで…。しかし存命中はピアニスト・作曲家・ディレクターとして一世を風靡し、多数の作品も残している人物です。それにフェルディナントがベートーヴェンのそばにいたのは10代後半のほんの数年で、その後の人生の方が長いわけです。ベートーヴェンの脇役ポジションでしかないのは、やはりあんまりですよね。

前作のシンドラーそして今回のフェルディナント・リース――偉大すぎるベートーヴェンの影に隠れがちな人物を真正面から見つめ、その人生を丁寧に描く。筆者の眼差しの優しさと真摯さに、私はまず胸打たれました。そして著書を読み進めていくうちに、フェルディナントは「気が弱そうな」人では断じて無く、むしろベートーヴェンの「運命の喉首を締め上げる」スタンスにだって負けないアツイ男であるとの認識に至りました。フランス革命に始まり世の中が大きく変化した時代にあって、筆者の言葉を借りると「大胆な冒険者」の生き様にどんどん引き込まれ、いつの間にかフェルディナント・リースにシンクロして彼の喜怒哀楽を我が事のように感じていたのです。歴史に埋もれた人物を見つけ出し、こんなに夢中になれる読み物で私達に教えてくださった筆者に大感謝です!これからお読みになるかたはどうぞお楽しみに!


以下に詳細な感想および個人的な考えを書いています。私の見方はあくまで主観によるものですので参考程度にとどめ、ご自身の見方は必ず著書をお読みになってご自身でお考えください。また過剰なネタバレは避けたつもりですが、本の内容の一部がわかる記述が含まれます。ざっくり乱暴にまとめちゃって本当にごめんなさい!厚さ約3センチの充実した内容の御本、私の切り取りでは魅力が伝わらないのが心苦しいです。以下、著書を既にお読みになったかたおよびこれから読む予定で多少のネタバレは気にならないかたのみ、「続きを読む」からお進みください。

 

 

(以下ネタバレあり)

伝記は時系列になっています。第1部は「モラトリアムの時代」。冒頭にいきなりインパクト大の肖像画があります。お父さんのアントン・リースの肖像、そしてお母さんと彼女に抱かれた赤ちゃんフェルディナント・リースの肖像。筆者が指摘する通り、フェルディナントはお母さん似のようです。こんな赤ちゃんの頃から眉毛が強い(笑)。時期的には『運命と呼ばないで』とほぼ被りますが、もちろん内容は今回の『ベートーヴェンの愛弟子』のほうが詳しいです。しかもハイリゲンシュタットの遺書ほかベートーヴェン中心エピソードは潔くカットしてあり、あくまでフェルディナントの人生を描いています。何気にすごい!と一瞬思いましたが、これはフェルディナント・リースの伝記であってベートーヴェンの伝記では無いというごく当たり前のことを早い段階で認識しました。ベートーヴェンそしてフェルディナントの生まれ故郷であるボンは、歴代の選帝侯が音楽を手厚く保護したお土地柄。神童とも呼ばれた父アントン・リースは優秀な宮廷音楽家で、フェルディナントは早くから将来を期待され音楽教育を受けています。順調に行けば宮廷音楽家になって故郷で穏やかに暮らせていたはず…しかしフランス革命の余波で宮廷楽団は解散。父の同僚の中にはうまく時流に乗り商売替えした人も(例えば音楽出版社を起業したジムロック!)いたものの、父は宮廷楽団の再起を待つ道を選び、長男のフェルディナントをウィーンで活躍するベートーヴェンに弟子入りさせることに。故郷ボンではリース家がベートーヴェン一家の暮らしを支えていたこともあり、「無理を言ってでも恩を返して貰う」と半ば強引な弟子入りだったようです。当時フェルディナント16歳。満足な旅費も持たせてもらえず、途中で写譜のバイトをして小銭を稼ぎながら何とかウィーンにたどり着きます。初めこそ困惑していたベートーヴェンですが、すぐにフェルディナントを気に入ったようです。フェルディナントの書き残した言葉「最初の数日で、ベートーヴェンはぼくが使いものになると気づいた」…もう私は夜中に声出して笑いました!さらっとパシリ認定。それにしても、チェルニーが「フェルディナントとベートーヴェンを実の親戚だと勘違いしていた」程の親密さって、「あの」ベートーヴェン相手にですよ?もちろん相性が良かったのでしょうが、それ以上に青年フェルディナントの人間性の良さを思わずにはいられません。そして、当時30代前半のベートーヴェン肖像画の解説に「すでにベートーヴェンを神格化しようというきざしが見られる」とあったのには驚きました。存命中、しかも30代前半でもうそんな存在だったんですねベートーヴェン…。そんな天才のそばにいながらフェルディナントは卑屈になったり腐ったりせず、生涯ベートーヴェンの弟子であることを誇りに思っていたとは!ひねくれ者が多い(あくまでイメージ)芸術家としてはめずらしい部類なのでは?実践の場で興に乗って「しでかす」くらい、いいじゃないですか。男ってすぐ調子に乗る生きものですからね。主語がでかい。

「昔ながらの徒弟制度」で常に師匠のそばにいながら、肌感覚で様々なことを学んだフェルディナント。また当時ピアノはまだまだ発展途上の楽器で、教育メソッドも未熟だったそう。そんな時代におけるベートーヴェンのピアノ指導方針が大変興味深かったです。楽器の発展で細やかな表現が可能になったこと、また音楽が市民階級にも広がりつつあったこと、そんな様々なことを見据えていたのですね!遺書を書くほど難聴に悩みながら、次世代のピアニストを育てていたなんて、やはりベートーヴェンは天才です。弟子のためを思って?いえベートーヴェン自身がピアニストの道をあきらめなければならなかったから、同時期に2人もプロ志望の弟子を取って育てた側面もあるようです。弟子のデビュー演奏会では失敗してほしくないと考える師と、その思惑も事情もよくわかっている弟子…しかし若きフェルディナントは大勝負に出ます。芸術家たるもの、こうでなくっちゃ!ここは「運よば」でも最高の見せ場でしたが、改めて文章で読むと当時の状況が目に浮かぶようでさらにドキドキワクワクしました。「しかし、きみは我が強いな!」と師ベートーヴェンに言わしめた19歳のフェルディナント。ここにヴィルトゥオーゾ・ピアニストの爆誕

第2部は「キャリアの時代」。冒頭の1811年の肖像画、やはり眉毛が強い。鮮烈な演奏会デビューを果たしたフェルディナントですが、フランス軍からの召集で(故郷のボンは当時フランス領)、ベートーヴェンの弟子時代は強制終了に。ベートーヴェンがある貴族宛に彼をオーストリア領で匿ってくれるよう嘆願書を書いて持たせてくれたにもかかわらず、フェルディナントは嘆願書は出さず、徴兵検査では視力の問題で「不合格」。故郷ボンへ。ウィーンでピアニストデビューを果たしたフェルディナントを故郷は歓迎してくれたようです。そして約1年の帰郷中に作品番号1を出版し、フェルディナントは作曲家デビューを果たします。手がけたのは「ボンの2人目の才能」の出現を待ち望んでいたジムロック。フランス語で書かれた大袈裟な献辞ではベートーヴェンの名を徹底的に利用し、プチ炎上まで計算して。もっとも、師ベートーヴェンはピアノの指導はしてくれたものの、作曲のほうはハイドンと同世代の老教師(かつてベートーヴェン自身も教わった先生)に頼んで弟子を勉強に行かせたのだそう。個人的に驚いたのは、フェルディナントは若いうちから結構多作で、しかもジャンルは多岐にわたること。師ベートーヴェンは難産型ですが、フェルディナントは割とすいすい書けるタイプ?フェルディナントは故郷ボンでフリーメーソンに入会して世界に出る下地を作り、次はキャリアアップのためパリに行くも、ドイツ正統派の「良質な音楽」は需要が無く不遇の時代を過ごすことに。この頃に書いたピアノソナタの副題が「不運」って、ド直球。そんなパリで1年半頑張った後、父と顔見知りの人物にロシア行きを助言され、その足がかりを作るためにウィーンへ。師弟の感動の再会…とはならなかったようです。かつてのパシリではなく一人の音楽家として自分のシマにずかずか入ってきたフェルディナントを、はじめベートーヴェンは疎ましく感じていたそう。ベートーヴェンの態度にフェルディナントがブチギレした師弟の一悶着はまるでギャグマンガです。いえ当人達は必死なわけですから笑ってはいけない、はい。しかしフェルディナントはまた召集令状を受け取ります。今度はウィーンを包囲したフランス軍と戦うため、オーストリア軍からの召集というのですから無茶苦茶です。ろくにコネも作れないまま、不本意にボンへ逃げ帰ることに。そしてフェルディナントが北へ旅立つ前、彼の壮行会も兼ねた演奏会が胸アツです。父アントンが音楽監督をつとめ、フェルディナント作曲のピアノ協奏曲を自ら弾き、フェルディナント唯一のヴァイオリン協奏曲では父がソリスト!今生の別れを覚悟して、いざ北へ。ロシアにたどり着く前に寄った各都市でも彼は評判良く、前途洋々。師ベートーヴェンのいけずのせいで宮廷楽長の地位を逃したカッセルにおいても勝ち星をあげています。なお旅の途中で、絶体絶命(ガチ)の大事件に遭ってますが、本人は割とけろっとしています。比喩ではなく本当に命の危機だったのに、なんたる鋼メンタル!そもそも戦時中なのに身の危険を顧みず知らない国へ赴いて音楽をやろうと考える時点で、かなり精神的にタフな人だとは思います。ロシアに着き、旧知のチェリストと演奏旅行の計画を立てているときに、フランス軍1812年モスクワ遠征…またしてもフランス軍に邪魔されるなんて!それでもこの時期にフェルディナント最高傑作のピアノ協奏曲第3番が生まれています。演奏旅行の計画は頓挫してロシアを離れ北欧に戻ったとき、人々は武勇伝込みでフェルディナントを歓迎。自作を演奏するだけでなく師ベートーヴェンが得意とした即興演奏でも高評価。多くの新作を生み出し「新しい作品群は少なくともベートーヴェンに似ていない」という望んだ評価も得られ、足かけ8年滞在して大成功をおさめています。20代のフェルディナント、普通は体験しないことにいくつも遭遇した激レアさんです。しかし転んでもただでは起きぬ鋼メンタルで、若いうちに諸外国でこれだけの結果を出せるのは素晴らしい。勢いがあって、人生上々ですね!

次の地はロンドン。市民も業界人間も、当時28歳のフェルディナントを手ぐすね引いて待っていた感がすごいです。フランス軍の時代は終わり、その気になれば好きに移動ができたにもかかわらず、彼はこの地で結婚までして永住する勢いで落ち着きます。ちなみに彼より12歳年下の妻は、のちに若き日のロベルト・シューマンが一目惚れ(なんですって!?人妻に興味持つなんてだめ絶対!)したほどの美しい人だったそう。当時のフェルディナントは、ピアノ曲では大衆受けする路線でヒットを連発しながらも、オーケストラ作品ではドイツ人のアイデンティティを徹底して貫きたい考えだったようです。ちょうどこの頃に発足したロンドン・フィルハーモニック協会(ウィーン楽友協会もほぼ同時期に生まれています)に入り、この頃に固まった「クラシック音楽」の概念にそって演奏会を取り仕切るように。存命中のベートーヴェンは既に「偉大なるクラシック作曲家」扱いで、フェルディナントは自らをそこに連なるドイツ人音楽家であると主張するようにプログラムを組んでいます。協会の仕事をしながら多くの交響曲を生み出しそして人気も獲得して…30代働き盛りのフェルディナントの充実ぶりは半端ないです。そして私は初めて知ったのですが、この時代のイギリスにおける演奏の仕切り方は「コンマスが弓でコントロールする」のと「ピアノがオーケストラの音をなぞる演奏で補助する」合わせ技だったそうですね。そこに革命を起こしたのが、フェルディナントが招いたルイ・シュポア。指揮者が指揮棒でオケをコントロールする方法で皆の度肝を抜いて、早速そのスタイルが採用されることになり、ほどなくフェルディナントも「指揮者」デビュー。しかし急激な改革って、やはり反発を招きますよね…純粋に良い音楽を奏でたいという志が、人間関係その他のいざこざで叶わないというのは相当つらいと思います。最終的にフェルディナントは協会をやめ、師ベートーヴェンをイギリスに招く計画の実現を待たずにドイツへ戻るのを決意。この頃にフェルディナントが作曲した、ベートーヴェンの「歓喜の歌」と双子とも言える曲があることにはとても驚きました。示し合わせたわけではないのにこんな偶然が起きるなんて!それぞれの曲における日本語でいうところの「楽園」(エリジウムアルカディア)がまるで違う意味である等、筆者による解説も大変面白かったです。こちらのピアノ曲、ぜひ録音を探して聴いてみたいと思います。もちろん他の曲も少しずつ。

第3部は「セカンドキャリアの時代」。冒頭の1832年肖像画、白髪がちになり顔に皺が刻まれてもやはり眉毛が強い。協会でもめた相手と和解して、自身の告別演奏会では自らの作品と演奏で聴衆から手放しの喝采を送られ、有終の美を飾って11年暮らしたロンドンを去ったフェルディナントは立派です。しかし妻子とのんびりリタイア生活のつもりだったのが、周りが許してくれない(苦笑)。世界で活躍した地元の星が帰ってきたと、新聞は期待ゲージMAXでかき立てるし、市民も「みんな(地元の人達)ぼく(フェルディナント)をすごく見たがっていたんだって」って、パンダじゃないんだから(笑)。ニーダライン音楽祭の音楽ディレクターを引き受けたものの、演目の目玉が出版前の「ベートーヴェンの新作の交響曲(第九)」で頭を抱えたフェルディナント。かつての同僚が指揮した、第九のロンドン初演が失敗に終わっているのもプレッシャーに。しかし持ち前の勝負強さで、スコアが間に合わなければパート譜を元に作り、リハーサルの時間が足りないなら演奏箇所をばっさり削る。そして結果は、ロンドンでは中途半端に終わった指揮者としても才能を発揮して音楽祭を大成功に導き、以後8回も音楽ディレクターを務めたそう。すごすぎ。それにしても、第九が「ドイツ愛国歌としての文脈を帯びた」というのが個人的にカツンときました。打倒フランス軍を言い続けた「ドイツ人」が音楽に誇りをもつようになり、それが音楽祭ブームにつながり、ドイツ語で高らかに歌い上げる「第九」はその祭りの主役にうってつけだったと。詩を書いたシラーも作曲したベートーヴェンもそんなつもりはなかったはずなのに、「音楽の力」って一体!?話を戻すと、アラフォーのフェルディナントはフランクフルトへの移住に人生初のオペラの作曲と、まだまだ現役で多忙な日々を送っています。もっとも妻子のみならず、老父とその後妻、さらには大勢いる兄弟達の生活まで面倒見ていたなら、既にリタイアなにそれ美味しいの状態だったのかもしれませんが。人生初のオペラ「盗賊の花嫁」は友人のヴェーゲラーが全面的に支援したそうです。主人公フェルナンドはフェルディナントのつもりでなんて、ヴェーゲラーはフェルディナントのことが大好きすぎでは?台本を1年にわたって2人で議論するとか、仲良しでなきゃできないとも思います。ロンドンでの「あきらめ」で失ったものを取り戻すかのような作品、初演は空前の大成功!なおこのオペラ初演の前年(1827年)にベートーヴェンが死去しています。訃報を聞いたフェルディナントは「もう一度でも彼に会いたかった」…1809年にウィーンで別れて以来、再会は果たせなかった2人。しかし、あのベートーヴェンが「自分に喜び(Freude)をあたえてくれる唯一の弟子」と話していたほど、気難しい楽聖にとって14歳年下のフェルディナントは大切な存在だったようです。のちにシンドラーが「伝記的覚書」を読んでこの師弟関係に複雑な感情を抱いたようですし、ベートーヴェンとフェルディナントは外野にはうかがい知れない強い縁で結ばれていたのですよねきっと。

40代のフェルディナントは向かうところ敵なしでは?と思いきや、人生で最もつらい時期にさしかかっていたようです。男の大厄かも(なおフェルディナントはドイツ人)。自分はベートーヴェンに続く「偉大なるクラシック作曲家」になれるのかと思い悩み、自身と妻の体調不良に苦しみ、それだけでなく末の愛娘をわずか2歳半で失う不幸に見舞われて、抑鬱状態に。そうは書かれていませんでしたが、心優しき家庭人であるフェルディナントは、英語しか話せない妻の外国暮らしのつらさを我が事のように感じていたのかもしれないですし、年齢的に男性更年期も重なったのかもしれないなと私は勝手に推測しました。そして時代はロマン派初期。例えば9歳の時の演奏会でフェルディナントのピアノ協奏曲を弾いたリストや、フェルディナントの交響曲を「はっきりとした独自性」を持っていると賞賛した25歳のシューマン。彼らロマン派初期の若き音楽家達は皆フェルディナントを尊敬してはいたものの、自分たちの新作をぶつける相手とは考えていなかったようです。ニーダライン音楽祭の音楽ディレクターはメンデルスゾーンと交互に担うことになり、この25歳差の2人はそれぞれ思うところがあって互いに嫌いあっている。少年時代にカール・チェルニーからピアノを教わったリストは、ベートーヴェンの「正統」な孫弟子と謳われ、本人も後継者気取りでボンにベートーヴェン銅像を建立する名乗りを上げる。リストとの直接の絡みは書かれていませんでしたが、ナチュラルに話を盛るタイプのリストと正直者のフェルディナントはおそらく馬が合わなかったのでは?フェルディナントは若い世代と競うのではなく、今まで築き上げた名声と地位を求められる場に出向いて音楽活動を続けるスタイルに。1831年には懐かしのロンドン続いてダブリンに演奏旅行し、都市間はこの頃出来たばかりの鉄道で移動しています。翌年は半年かけてイタリアを妻とゆっくり周遊しながら創作活動。そして「アーティストにとって最上の楽園(エリジウム)だ」と52歳のフェルディナントが驚いたのは、若い頃辛酸をなめたパリ。フェルディナントと同世代の音楽家も活躍していた当時のパリで、フェルディナントは大ブレイク。よかった、本当によかった。古巣のロンドンからもお呼びがかかってパリと行き来する多忙な中で作曲活動も進めています。過労がたたってかパリでインフルに罹患して、アーヘンでの音楽祭をシンドラー(でた!初出!)に手紙で演奏指示したこともあったそう(そして音楽祭は成功)。今度はフランクフルトの合唱団体チェチーリア協会からディレクター就任オファーがきて、病み上がりなのに持病もあるのに、引き受けることに。リタイアする暇なしです。

フェルディナント最後の大仕事はベートーヴェンの伝記プロジェクト。はじめはシンドラー、ヴェーゲラーそしてフェルディナントの3人で進める予定でしたが、なんやかんやありまして(このあたりは『ベートーヴェン捏造』にもシンドラー側の視点で書かれてありました)、シンドラーは単独で、ヴェーゲラーとフェルディナントは共著で伝記を書くことに。ベートーヴェン神格化の時代にあって、シンドラーが偉大なるベートーヴェンを「捏造」したのに対し、「話しすぎている」とシンドラーに非難されたほど忌憚なく楽聖のエピソードを書き綴ったフェルディナント。若い頃のベートーヴェンを知るフェルディナントが正直な人でよかったなと個人的には思います。筆者によると「彼のペンは慎重」で、流行のベートーヴェン像を創りあげるのには加担せず、できるだけ弟子時代に踏みとどまろうとしていたそう。面白いシーンでは「ぼくの気まずさを想像してほしい」と書き足したりしちゃうところが、「らしく」て私は好きです。伝記執筆ははじめ気乗りせず、オファーを一度は断ったほどだったにもかかわらず、1ヶ月半で50ページ超を書き上げ、フェルディナントは音楽以外でも仕事が早いです。しかし「覚書」執筆で昔を思い出す過程が、人生を振り返ることにもなったようです。楽しいことだけでなく長年忘れたつもりでいた苦いことも生々しくフラッシュバックし、また掴めなかったチャンスになお未練が断ちきれない。宮廷音楽家の長男として生まれ、めまぐるしく変化した時代に生きて「楽園」を求めて旅する運命を課せられたこと――そんな自分が生きてきた道を素直に肯定できず、別の人生があったかもしれないと思い悩んでしまう(ちなみにフェルディナントは自身の息子を音楽家にしようとはしていません)。様々な道を進んでいった同世代の音楽家達についても「誰が正しいというのだろう?」。もう今際の際の回想ような感じがして、私達が読んでいて胸が苦しくなるのは、彼に死期が近付いていると知っている後世の人間だからかもしれません。フェルディナントは発作に倒れ、ベッドの上でヴェーゲラー宛ての手紙に「覚書」の疑問点を詳細に綴って、その半月後に死去。1938年1月13日、53歳。同じ年の1938年5月に『ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンに関する覚書』刊行。ヴェーゲラーがフェルディナントの人間性を絶賛し哀悼の意を表した「前書き」が挿入され、フェルディナントの父アントンへの献辞の1ページを添えて。そして1845年ボンで開催された「ベートーヴェン像建立記念式典」には、友人ヴェーゲラー79歳(!)、父アントン89歳(!!)で元気に参列。世界中を渡り歩いたフェルディナントが53歳で亡くなり(当時としては早すぎるとは思えませんが)、ほぼ故郷ボンから離れなかった友人と父親がかなり長生きしたのですね。「(フェルディナントに)あと30年は長生きしてほしかった」というヴェーゲラーの嘆きが、一つの場所に留まることができなかったフェルディナントの人生および今際の際の回想と重なり、私は考え込んでしまいました。フェルディナント・リースさん、人生を終えていまあなたはどう思っているのですか?故郷で心穏やかに暮らして長生きしたかった?それとも何度も寿命が縮まる思いをしながらも冒険を続けた濃い生き方でよかった?個人的には、フェルディナントが仮にずっと故郷にとどまり続けていたなら、宮廷楽団は解散したのですから音楽家にはなれず、まったく別の職に就き音楽史には登場すらしなかった気がしてなりません。音楽家として生きたフェルディナントは、16歳で故郷を出て楽聖ベートーヴェンの愛弟子となり、運命に屈せず世界中を渡り歩き、外国人の妻と家庭を築き、そして何より音楽の世界で数多の成果を上げました。幸せだったかどうかは本人が決めることですが、こんなに充実した人生はそうそうないのでは?「ベートーヴェンの弟子」だったという一点のみでは語り尽くせない、波瀾万丈でめいいっぱい駆け抜けた53年の生涯は、間違いなくスタンディングオベーションに値する生き様でしょう。

「終」では、フェルディナントが死後緩やかに忘れられていったことについて、筆者の分析や思いが書かれてあります。理由は「(すぐれた後継者がいなかった等)彼自身問題」と「世代特有の困難」。「踏み台」という表現がありましたが、やはり私はロマン派初期の音楽家達が鍵のような気がします。音楽ディレクターとしてフェルディナントが組んだプログラムは、ハイドンモーツァルトベートーヴェンといった「偉大なるクラシック作曲家」の作品に加えて自分たち(フェルディナントおよび同世代)の新作や近作といった形式でした。ロマン派初期の音楽家達が演奏会を仕切るときは、「新作や近作」の枠には自分たち(ロマン派初期)を入れたんですよねおそらく。すぐ上の世代の作品を無意識に押しやって。ロマン派初期の音楽家達にとっては、ベートーヴェンまでが「偉大なるクラシック作曲家」であり、一緒に仕事をして直接知っているすぐ上のフェルディナント達の世代を「偉大」とは考えにくかったのでは?そして演奏機会がなくなれば人々に忘れられるのは当然です。筆者の指摘の通り、フェルディナント・リースだけでなく、彼と同い年のルイ・シュポアや2歳年上のノクターン創始者であるジョン・フィールド、教育の業績を残したカール・チェルニーにしても練習曲以外の作品は現代の人達にはほとんど知られていません。しかし「クラシック音楽というジャンルそのものが大きな変容を遂げている」今日、フェルディナント・リースはさまざまな人達によって再発見されているとのこと。「『偉大なるクラシック作曲家』という権威の磁場を逃れることによって、その魅力があらためて可視化されてきた」との記述には、はっとさせられました。フェルディナントの師ベートーヴェンは神格化され、「第九」が政治利用される等、本質からかけ離れている側面があるのは否めません。むしろそんな先入観がまるでないフェルディナントのほうが自由で、奏者も聴衆もフラットに向き合えそうです。もちろんそれは、同じく「忘れられた」同世代の音楽家達にも言えること。現在私達が漠然と「クラシック音楽」と捉えている範囲は案外ピンポイントなのかもしれず、今まで埋もれていた作曲家やその作品が注目され聴くチャンスができるのは、純粋にワクワクします。時代が違う上に著書にはなかった話ですが、最近古楽ピリオド楽器が注目されている例もあります。「従来のクラシック音楽の範囲」が大きく変わろうとしている現代に生きる私達は幸せです。

今年2020年はベートーヴェン生誕250年のアニバーサリーイヤーであり、本来であればベートーヴェンが主役の演奏会やイベントが目白押しのはずでした。世界的にベートーヴェンの話題が盛り上がったタイミングで、フェルディナント・リースというベートーヴェンの愛弟子の「おそらく世界初の伝記」は華やかに世に出てしかるべきでした。ところが、もちろん誰も予想できなかったことではありますが、感染症拡大の影響で演奏会もイベントも皆無に。現在はベートーヴェンどころかクラシック音楽を聴く環境の存続すら危うい状況になっています。なんたる運命!と、フェルディナント自身は嘆くでしょうか?いえ、困難に遭遇するのにはきっと慣れていますよね。フェルディナント・リースは生まれたときから時代に翻弄され続け、それでも生きる道を自らの手で切り開いてきた音楽家です。今までがそうであったように、この先どんな運命が待ち受けていたとしても、きっと彼ならたくましく生き抜き、来たるべきタイミングで大ブレイクを果たしてくれると信じています。かつて緩やかに忘れられ、今ふたたび「見つけられた」フェルディナント・リースさん、新たな船出おめでとうございます!


最後までおつきあい頂きありがとうございました。


※この記事は「自由にしかし楽しく!クラシック音楽https://nyaon-c-faf.hatenadiary.com/)」のブロガー・にゃおん(nyaon_c)が書いたものです。他サイトに全部または一部を転載されているのを見つけたかたは、お手数ですがお知らせ下さいませ。ツイッターID:@nyaon_c