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『ブラームス回想録集』全3巻 天崎浩二(編・訳) 関根裕子(共訳) 読みました

今回ご紹介するのは『ブラームス回想録集』全3巻 天崎浩二(編・訳) 関根裕子(共訳) です。2004年2月 音楽之友社。 


作曲家ヨハネス・ブラームス(1833-1897)を直接知る人達による回想録が集められた本、全3巻です。ブラームスが大好きな私にとっては興味津々なお話が次々と出てきて、もう夢中になって読みました。愛読書として一生付き合いたい本に出会えてうれしいです。一次資料が日本語訳で読めるのは、私のような外国語がおぼつかない者には大変ありがたいこと。バラバラに存在する原文を丁寧に調べて集め、訳注を入れながらの翻訳は一大プロジェクトだったことと存じます。『ブラームス回想録集』を世に送り出してくださったすべての皆様にお礼申し上げます。

早速感想に入ります。私の見方はあくまで主観によるものですので参考程度にとどめ、ご自身の見方は必ず本書をお読みになってご自身でお考えください。本当に、私のレビューを斜め読みしただけで本書を読んだ気にならないでくださいね……。私の切り取りはごく一部ですし、特に音楽の専門的な部分はなるほどと思いつつもほとんど拾えなかったのですよ。言うまでもなく、こちらの回想録集は音楽に関する記述は大変充実しており、音楽史や演奏の勉強をしているかたにはお役に立つ記述が満載です。また当時(ロマン派後期)の社会情勢や文化全般についても色々と書かれているので、少しでもクラシック音楽に関心があるかたであれば知りたい情報が盛りだくさん。とにかく、ブラームスのファンであってもなくても、『ブラームス回想録集』はぜひ読むことをおすすめします!かくいう私は「人間ブラームス」を追いかけるオタク的な読み方しかできませんが……。なお、このレビュー記事は全部で31035文字あります。概要だけでしたら4987文字です。長いですから、概要だけでも良いですし、詳細部分は気になる著者の章だけ拾い読みでも、お好きに読んで頂ければと思います。私の方は、自分の備忘録として好き勝手に書いているのをついでにネット公開しているだけですので、もろもろどうぞお気になさらず。

以下、ネタバレが含まれます。ご了承頂けるかたのみ「続きを読む」からお進みください。

 (以下ネタバレあり)
※お好きなところから読めるように、目次を作りました。

 
【概要】

「読めば必ずブラームス本人に会える」と編者の天崎浩二さんが仰る通り、15名の執筆者の文章と写真を通じて、あたかも目の前でブラームスが生き生きと演奏し、元気いっぱいに食べて歩いて好きなことをしゃべっている様が見えるようでした。直接会った人達による証言はリアルで「ブラームスは本当に生きていたんだな」としみじみ。どの回想録も「人間ブラームス」を書いていて、偉人伝にはなっていないのが個人的にはよかったです。大作曲家ブラームスは確かにすごい人ではあるのですが、なんと言えばよいか、もう丸ごと愛しい!私、ページをめくる度にますますブラームスのことを好きになっていきました。彼は類い希なる音楽の才能に加えて、人を惹きつけてやまない人間的な魅力もあったんですね。こんなに大勢の人達が回想録を残したのもうなずけます。良い面も悪い面もありのままに書かれてありましたが、私はたとえその欠点を知ってもブラームスを嫌いになることはなかったです。むしろ、彼の不器用な生き方がたまらなく愛しくて、どうにかして差し上げたくなったり、ある意味どうしようもない人だからこそあんなに心かき乱す曲が書けたのねと一人で納得したり。目につく欠点は「太陽の小さな黒点ではないのか?」とのフローレンス・メイの言葉が気に入っています。黒点の存在が太陽を全否定するものではないですし、もっと言えば黒点も含めて太陽ですから!こんな私みたいな痛いファン、もしご本人に知られたら間違いなくうっとうしがられて、近づけば皮肉かセクハラで撃退されてしまうのがオチですよねきっと。愛を遠慮無く語れる、推しが既に故人のクラシック音楽は最高です!

もっともブラームス本人は自身の考え方やプライベートなことを書かれるのを嫌い、自分自身について多くは語りませんでしたし、自分の手の届く範囲では作品の草稿やスケッチ、手紙等は徹底的に処分した人でした。もしこんな回想録集や処分を免れたクララとの手紙が出版されているのを知ったら、ご本人はきっとカンカンに怒ることでしょう。しかし「偉大な人物というのは、元気であっても亡くなっても、結局誰かに書かれることになる」とオイゲーニエ・シューマンが書いている通り、これは有名税ということでお許しくださいブラームス先生。それに執筆者は誠実な人がほとんどですから、彼らと天国で再会したときはどうか笑って許して差し上げてくださいませ。

同じ「人間ブラームス」を見ていても、当然とはいえ切り口は人それぞれなので、複数の執筆者の文章を読み比べする楽しみもありました。いつもの「赤いハリネズミ」の指定席にいるブラームスを囲んで、立場が正反対のリヒャルト・ホイベルガーとカール・ゴルトマルクがよく同席しているのが面白いです。また、フローレンス・メイとチャールズ・ヴィリアーズ・スタンフォードが同じ演奏会を聴き、それぞれレポートしているのも楽しい。同じ会場の客席にいて、舞台にいるブラームスを介してつながっているのに、二人は会っていないんですよね。そして特筆すべきは、書き手の文章が揃ってハイレベルなこと。文学者や評論家に限らず、音楽家でもこれだけの文章を書けるんだなと、私は失礼ながら驚きました。この時代の人達は、離れている人とのコミュニケーションは手紙ですから、タイムラグを考え受け手のことを思い手書きでじっくり書くことで文章を深く掘り下げる習慣があったのでしょうね。ネットやSNSが基本で、手元のスマホから思いつきを短かい単語でリアルタイム発信する現代人とは大違いです。音楽にしてもCDやラジオはなく、楽譜を買って自分で演奏して音楽を楽しんでいたわけですよね。この時代に楽譜が読めない楽器もできないでは、音楽を楽しめないという。私は現代に生まれて良かったのか悪かったのか……。

なお、回想録集に収録されている文章はいずれもブラームスの死後に書かれたもののため、執筆者はブラームスより若い人が多く、内容もブラームス30代から晩年にかけてのエピソードが中心となっています。20代について書いているのはアルベルト・ディートリッヒのみで、それ以前のハンブルク時代の回想は皆無です。それでもブラームスの青年期から老年期までの変化は見て取れます。若い頃は天真爛漫な感じだったのに年齢を重ねるほど偏屈に。ただ子供好きは生涯変わらず、子供達と遊ぶときは文字通り童心にかえります。結婚願望はずっとあったのに生涯独身で、しかも結婚については晩年近くまで引きずっていた印象。晩年トレードマークになったヒゲは、20代の頃からのばしたり剃ったりを繰り返しています。ド近眼なのに人前ではメガネをかけず、最晩年は転んで顔を怪我をしたことも。しかしどの人もブラームスの青い目を褒めるんですよね。自分のチャームポイントをわかっていたから、頑なにメガネはかけなかったんですよきっと。体型は30代前半まで「痩せている」、38歳時点で「がっちり」、ところが43歳になると太りすぎを心配されるように。早起きで規則正しい生活、そしてよく歩く人なので運動不足ではなさそうですが、何せ食べる量が半端ないです。お酒をたしなむ上に甘い物も大好きで、しかも好きなだけ飲み食いするのを止める人はいなくて、こんな食生活ならどう考えてもメタボまっしぐら。ちなみに美食家ではなく比較的質素な家庭料理を好み、出されたものは平らげる「主婦から見て最高にもてなしがいのある」(ヨーゼフ・ヴィトマン)人だったそう。気の合う人達との会食では割と機嫌が良くて、ホイベルガーはこのタイミングでブラームスの爆弾発言を引き出すのが常でした。

ブラームスは「友達なんか一人もいやしない」とオイゲーニエに言っています。そのオイゲーニエによると「ブラームスは世の孤独な人たち同様、自分の意見を静かに、他人からの影響なしに組み立てていた」そう。傍目から見る限りは、社交性はなく内向的なブラームス。それでも彼を慕う人は大勢いたようです。生涯通じて親交があったクララやヨアヒム、苦楽を共にした音楽家仲間だけでなく、各都市や保養地で家族ぐるみのお付き合いをした人達や、言うまでもなくブラームスのことを正直に書き残した回想録の執筆者たちだってそうです。ブラームスは皮肉屋で人当たりがよくない上に、ミーハーな人や打算的に近づいてくる輩は早々に蹴散らしましたから、彼と長く付き合えた人は本物だと思います。そんな友達が大勢いたのは、間違いなくブラームスの財産。また回想録には登場しなかったものの、極貧の少年時代にも彼を支えた人は何人もいたのです。自称「音楽の正規教育は受けていない」ブラームスではありますが、ピアノを教えるスキルは確かだったようで、これはもしかするとハンブルク時代のコッセル先生とマルクスゼン先生の教え方なのかも?と私はちらっと思いました。一方、作曲の教え方がひどかったのは、おそらくこちらは独学だからですよね。

そして私が地味にすごいと思ったのは、執筆者が多く話題が多岐にわたるにもかかわらず、ブラームスの人物像がブレないことです。生い立ちや立場や考え方が異なる複数の執筆者によるブラームスを統合しても、見事に辻褄は合うんですよね。このあたりは、引き合いに出して申し訳ないのですがベートーヴェンとは大違いだと思いました。ベートーヴェンの場合、ヴェーゲラーとリース共著の「覚書」は記憶を頼りに書かれており、しかも他にめぼしい回想録はなさそうです。シンドラーの「捏造伝記」に至っては大事な一次資料である会話帳に手を入れ、大半を処分した上で成り立っています。このように頼みの綱の一次資料が乏しい中で、ベートーヴェンの神格化が加速したロマン派初期に、本来の人物とかけ離れたベートーヴェン像が作られていきました。一方ロマン派後期になると、ブラームスの周辺にいた人達は日常の他愛もないやりとりに価値があると気付いていたのですね。回想録の執筆者たちは、ブラームスから受け取った手紙は大事に保管し、人によっては会ったその日のうちに会話や出来事を記録しています。実際、どんなに些細な日常のエピソードでも、大袈裟でなく人物そのものを映し出す鏡となるため侮れません。また、執筆者たちはいざ文章にまとめる際にも変な誇張やごまかしはしていないようです。加えて、ブラームス自身が正直で嘘がつけない性格だったことも幸いし、執筆者たちがありのままを書けばおのずと「人間ブラームス」がリアルに浮かびあがるのです。もちろんこの頃になると肖像画ではなく写真があり、出版物も増えて人々が嘘を見抜くメディアリテラシーを身につけつつあった背景があると思います。結果として、ブラームスに関しては信憑性の高い証言が複数残されました。裏を返せば「神様」にはなり得ませんが、これはブラームスに限らずベートーヴェンより後の作曲家は皆同じかもしれません。

一次資料にあたるのは大事だなと私が実感したのは、伝記や音楽関連記事で既に知っていたお話と回想録集に書かれた内容にズレがあると気づいたからです。一例として、ジョージ・ヘンシェルとの手紙のやりとりで出てきた、コントラバスをオケの後方左右に分けて配置する案について。こちら、ある音楽雑誌の記事で「ブラームスが理想とした配置」と紹介されていたのを私は読んだことがありますが、実際はブラームスは興味を持っただけでした。またツイッター上にて公開されているマンガでも、回想録に登場したお話とはニュアンスが微妙に違うと感じたものがありました。二次情報には書き手の解釈や主観が入ることを念頭に置いて、鵜呑みにせず、可能であれば一次資料や複数の二次資料で裏付けをとったほうがよさそうです。さらに、一次資料にだって書き手のバイアスが入ることは忘れずに。特に私のような痛いファンの場合は、悪意に満ちた内容よりむしろ受け入れやすい好意的な記述こそ、冷静に見るべきなのでしょう。とはいえ、日本語訳でしか読めないのが私の限界でもあります。そもそも翻訳本が出版されなければ内容に触れられない上に、いざ訳された文章で内容を把握しても原文のニュアンスまでは感じ取れないのですから。今回だって、ほとんどを見逃している自覚はありますが、一般的な日本語に訳されている部分でも元は品のない言葉なのかな?と思える表現に気付いたり、「(『運命』は)ドイツ語では『人間』の意味もある」という注釈に感心したり。それに一般論として、万一誤訳があったとしても、私は日本語訳をそのまま信じるしかないのです。念のために、こちらの回想録集は大勢のかたの下訳やチェックを重ねているので、概ね信用してよいと私は思っています。

私はこの回想録集を読んで「ブラームスのすべてを知った」とは思っていません。そもそもその言動をつぶさに観察したところで、人間の本質などわかるはずはありません。ブラームスのような非凡な人ならなおさらです。彼のことをもっと知りたいと素直に思う一方、どこまで追いかけてもその本質は掴めないような気もしています。それでも執筆者たちの文章を通じて、「鎧」を脱いだブラームスの素顔を垣間見ることができたのは大きな喜びでした。今後ブラームス作品を聴くときも関連記事を読むときも、今までとはきっと違う捉え方ができそうです。私はこの先、ブラームスの音楽作品を繰り返し聴くのと同様に、この回想録集も何度だって読み返したいと思います。

「不滅なんてたかが知れてるよ。もってせいぜい数年だ」とホイベルガーに言ったブラームス。いえ少なくとも没後120年以上経った今でも、ブラームスの音楽作品は世界中で演奏され続けています。さらにこんな東の果ての島国においてでさえ回想録集が翻訳・出版され、それを熱心に読む読者だっているのですよ。先人達がブラームスを愛し、その音楽と記憶を残すため後世にバトンをつないでくださったおかげです。当然、現代に生きる私達も次世代につないでいきたいと思っています。これほどまでの音楽作品を世に送り出し、人としてもこんなに愛されエピソードの数々があるブラームス。未来永劫「不滅」との保証はできないけれど、そんな簡単に世の中から忘れ去られることはないと私は信じています。

それでは、各執筆者の個別の感想に進みます。


アルベルト・ディートリッヒ(1829-1908) 作曲家・シューマンの弟子(ブラームスの兄弟子)

第1巻。最初に登場したのはアルベルト・ディートリッヒ(1829-1908)です。ブラームスより少し早くシューマンに弟子入りした音楽家で、当時はシューマンの後継者として人物・作品ともに高く評価されていたそう。他の人の回想はブラームスが大家となった晩年が中心なので、若い頃のブラームスを知る人の証言は大変貴重です。例えば「ヨハネスはブリキの兵隊を28歳になっても大事にしている」とブラームスの母から聞いた件なんて、お宝エピソードですよね。主にブラームス20代から30代前半の時期について書かれていて、始まりは当時20歳のブラームスシューマン家を訪れたときから。シューマンブラームスの才能に驚き、「すごい人物がやってきた」と、瞬く間に仲間内で話題に。ヨアヒムへのプレゼントとしてディートリッヒ、ブラームスシューマンの3人でF.A.E.ソナタを作曲したことや、シューマンの入院から死去と、ドラマチックな出来事が信じられないほど次々と起きます。しかし実際に体験した人の回想と当時の手紙を読むと、これはフィクションではなくリアルに起きた出来事だと実感。なおこの時期のブラームスがクララに苦しい恋をしていたことは追求していません。アルプス地方に一人旅だと勇んで出て行ったブラームスが結局引き返してきた件を、ディートリッヒへ手紙で報告した人が「どうでもいいけどホームシックだってさ(※この場合のホームはクララがいる家)」と書いた、せいぜいこの程度です。ちなみにシューマンの死後に、ブラームスとクララが仲良く連弾していた様子や、ふざけたことを重々しく話すブラームスにクララが怒った話、二人の友情を祝した詩を芸術家仲間で作った話などの紹介はありました。ブラームスは案外惚れっぽくて、彼がディートリッヒ宅に滞在中、当時出入りしていた若い女性にぞっこんになり「結婚したい。彼女となら幸せになれる」と真剣に言ったとのエピソードも。また、個人的に「あのブラームスらしくない」と感じたのは、20代のブラームスは仕事の報酬面を気にしていた様子がディートリッヒ宛の手紙から読み取れることです。ハンガリー舞曲の大ヒットで大金持ちになる以前のことですし、当時は別居中の両親にそれぞれ仕送りもしていたので、20代のブラームスはそれなりにお金に困っていたんだなと。意外な点といえば、スケッチの類いを一切残さなかったブラームスが、若い頃はスケッチや草稿の数々を気軽に(!)ディートリッヒに見せているのには驚きました。交響曲第1番(1877年出版)の第1楽章の草稿をディートリッヒが見たのは1862年で、ディートリッヒによると「(完成した曲は)相当の変更を施されていた」。ピアノ五重奏曲op.34の原型となった弦楽五重奏曲ヘ短調(※破棄)の楽譜もディートリッヒは一時預かっていて、「またもや傑作」と高評価しています。しかし「手を加えるので試演しないで送り返してほしい」とブラームスに手紙で頼まれて返却……あああ勿体ない!それでもこれは形を変えて残った曲だからまだいいほうで、まったく日の目を見ることなく破棄された作品はごまんとあるのですよねブラームスって。そしてディートリッヒの章で圧巻なのは「ドイツレクイエム」のブレーメン初演レポートです。プロジェクト実現に尽力し、そこに至るまでのブラームスを熟知するディートリッヒが目撃した歴史的瞬間は胸が熱くなります。こちらはぜひ本書をお読みください。ディートリッヒ宛ての手紙では、仕事のことだけでなくその家族についていつも気にかけていたブラームス。ディートリッヒの幼い娘と息子を「僕の花嫁と義弟」と呼び、成人して嫁いだその娘にも手紙を書いています。自称筆無精が信じられないほど、愉快な内容の手紙がたくさんありました。年齢を重ねるごとに偏屈になっていったブラームスですが、兄弟子ディートリッヒにはずっと若い頃の素直な心のままで接することができたようです。


ジョージ・ヘンシェル(1850-1934) 歌手・作曲家・指揮者

ジョージ・ヘンシェル(1850-1934)は歌手として作曲家として指揮者としてマルチに活躍した人物。お笑いとそれを文章化する才能もあるようで、その意味ではヘンシェルの回想録が一番楽しかったです。私の切り取りでは面白さがうまく伝わらないのがもどかしい!これから本書を読む予定のかたは(というよりぜひ読んでください)、私のレビューは本書を読み終わってから読むのをおすすめします。出会いは1874年のニーダーライン音楽祭、ヘンシェル24歳ブラームス41歳。ブラームスの人柄にすっかり魅了されたヘンシェルは、公演の合間の飲み会では、それが若い歌手にとって悪い環境とわかっていてもタバコの煙が充満する部屋に深夜までいてブラームスと過ごしたと明かしています。回想録のメインは、仕事や旅行でブラームスと一緒に過ごすことが多かった1976年の日記です。音楽に関する重要な記述もたくさんあるのですが(コントラバスをオケの後方左右に分けて配置する案にブラームスが興味を示したなど、色々ありました)、なにしろ面白エピソードの数々が強烈すぎます。ホテルで相部屋(!)になって、「過去の経験から」ブラームスのいびきがすごいことを知っているヘンシェルは、ブラームスより先に寝ようと頑張るも、そんなときは眠れない!あるある!いびき実況中継にはお腹抱えて笑いました。ヘンシェルは結局別室に避難することに。翌朝ブラームスヘンシェルにウインク(!)して「首を吊ってしまったのかと思った」って、全然負けてません。一緒に海水浴(!)に行ったときは、ブラームスの水着姿を見て「太りすぎの感あり。大丈夫か」(笑)。丈夫なハンモックを買ってきて、無理矢理二人で一緒に乗り「愉快」と言う26歳とメタボが心配な43歳。ブラームスが先導してウシガエル池探検をしたときは、ブラームスの方向音痴(!)のせいで延々と歩かされるはめに(道中、人類に遭遇しなかったそう)。その池で、ブラームスはカエルの鳴き声を音楽的にいたって真面目に分析していますし、いたいけなカエルをつかまえては離すという遊びを大の大人が楽しそうにやっています。ブラームスのシャツのタイをとめるボタンがとれたときは、ヘンシェルが裁縫道具(お母さんが持たせてくれた)を出し、縫ってあげています。ブラームスはシャツを着たままで、チューしちゃいそうなくらい二人の距離が近いです。ご自分で縫えばいいのにと思ったら、ブラームスも若い頃に母親が裁縫道具を持たせてくれたものの、針が使えないんだそう。以前ズボンがやぶれたときは封蝋で閉じ、「もつわけないよね」って当たり前です。そんなのまたすぐに破れてお尻丸見えになりますからね。大作曲家ブラームス、もうなんなのこのかわいらしい生き物は!!!まるで恋人同士みたいにブラームスと密月を過ごしたヘンシェルに嫉妬します(笑)。ヘンシェルが目撃したブラームスの素顔は面白エピソードの他にも色々あり、コンサートの前にブラームスがホールで一人きりでピアノの前に座り、演目にあるシューマンのピアノ協奏曲とベートーヴェンの合唱幻想曲を必死に練習していた話もありました。「落ち着けヨハネス」と自分に言い聞かせながら。自分の曲ならさっと演奏できるという彼でも、大先輩の作品はそうはいかなかったようです。また別の時は、バッハ、モーツァルトベートーヴェンのような「神様」がいるのに、「われわれ一般人がどうすればうぬぼれることができるのか」とひたすら自己卑下。良い話ばかりではありません。ある作曲家が自筆譜を持ち込みブラームスの目の前で汗だくになって演奏した際、「この五線譜どこで買ったの?上物だなあ」と痛烈に皮肉った有名な逸話が出てきました。コンサートの後に大勢の女性ファンに囲まれ(これはいつものことなのだとか)、ブラームスはセクハラ発言を繰り返していたとの話も。それを周りが持ち上げるのですが、一人だけその輪に加わらなかった女性がいたそうです。「彼女の名前は必要無いだろう……」そうですね、第3巻に登場するエセル・スマイスと思われます。なお密月のあとにヘンシェルが渡英したため、1976年以降はもっぱら手紙のやりとりで交流が続きました。ブラームスの書いた手紙そのものも愉快ですが、ヘンシェルが注釈で「またからかっている」等と書いて遊んでいるのが面白さを倍増させています。ついにイギリスには行かなかったブラームスが、変な噂が流れるのを気にして「皆さんにうまくご説明願います」と書いた手紙もありました。1897年4月3日、ブラームス死去。ヘンシェルはこの日の夕方にウィーンに到着し、最期には立ち会えなかったそうです。葬儀レポートは詳しく、大勢の人が続々と参列するのを見て、ヘンシェルベートーヴェンの葬儀を思い起こしています。「この世の中に、まともな男などいないよ」と言ったブラームスは、皮肉や無作法といった「鎧」で身を守る人でした。そんな彼を「素朴で優しく子供のような人柄」と評するヘンシェルは、ブラームスの素顔を垣間見ることができた数少ない人物のひとり。ヘンシェルの楽しい文章のおかげで、いかめしい肖像写真からは想像もつかないような「人間ブラームス」を知ることが出来てうれしかったです。そしてブラームスの人となりについては、ブラームスの友人フランツ・ヴュルナー(1832-1902)による言葉が引用されています。こちら必読です!ちなみにヴュルナーは、自称ベートーヴェンの秘書で捏造伝記の著者であるアントン・シンドラーの弟子だった人物。間接的にでも「神様」ベートーヴェンと繋がっている人が、「(自称)一般人」ブラームスを大いに讃えているのですよ!もしヴュルナーによるブラームス回想録が現存するならぜひ読んでみたいです。


クララのピアノの弟子 アデリーナ・デ・ララ(1872-1961)/ファニー・デイビス(1861-1934)/イローナ・アイベンシュッツ(1873-1967)

クララのピアノの弟子は女性ばかり4名が登場。クララは自分の弟子達に、時々ブラームスのレッスンを受けさせていたようです。50代のブラームスと出会ったアデリーナ・デ・ララ(1872-1961)は、「その演奏を聴くと身震いがした」。ブラームスは、自作品の低音を生徒が弱く弾くと怒り、本当に純粋なppなら大きなホールの一番後ろにまで聞こえるはずと言ったのだそう。一方で、あのブラームスの評とは思えないような「ひょうきん」「おちゃめ」といった表現も。クララとブラームスの連弾をシューマン家でいつも聴いていたアデリーナは、真剣に弾くクララにブラームスが「クララちゃん、何でそんなにくそ真面目なの?」と言ったのも目撃しています。クララちゃん!?また、同じく50代のブラームスを知るファニー・デイビス(1861-1934)は、1887年に「二重協奏曲」を通しで演奏するためにバーデン・バーデンに集まったヨアヒム、ハウスマン、ブラームスの3人が「ピアノ三重奏曲 ハ短調」を旅館で試演したのを聴いています。「三人の超大物たち、譜めくりクララ・シューマン……なんという光景!一体全体どんな音がするの?」そうですよね!聴けたのがうらやましい!譜例つきの詳細レポートでは各演奏箇所でどのような表現をしたかが詳しく書かれており、この日の演奏でのテンポも記録されていますので、演奏をする人には大変参考になると思われます。ファニーによると、ブラームス作品を再現する際に最も重要なのは「テンポ」。しかしブラームスは、楽譜にメトロノーム記号を書かないばかりか、演奏するファニーに対しても「とにかく美しく頼むよ、好きにやっていいから」と言うのです。一番大事なところなのに、答えは数字では決められない!作品に命を吹き込む「テンポ」あるいは「間合い」とは実際そのようなものなのかもしれませんね。ブラームスの50代から最晩年までを見届けたイローナ・アイベンシュッツ(1873-1967)もまた、私的な演奏会でブラームスとすごいメンバーによる演奏を何度も聴いたひとり。避暑地イシュルでのヨハン・シュトラウス2世やミュールフェルトらとブラームスの交流も目の当たりにしていますし、最晩年のブラームスがピアノ小品集op.118とop.119を「できたてホヤホヤの“練習曲”があるんだよ」と弾いたのを聴かせてもらっています(おそらく世界初演!観客はイローナのみ!)。演奏後、イローナがダ・カーポしてと言わなかったせいで、すねちゃうアラ還の大作曲家(笑)。このピアノ小品集は当時ブラームスと仲違いしていたたクララに献呈され、クララが手紙で「最新作に免じてわれわれの友情を元の鞘に納めましょう」と書いたのは有名な話ですね。それにしても、できたての作品はクララに真っ先に見せて意見を聞くブラームスが、この時はそれができなかったからイローナに聴いてもらったんですね。曲がクララのお気に召すか内心ドキドキで、イローナの反応も深読みして不安になっちゃうとか、かわいすぎです。ブラームス先生、既にあなたは大作曲家なんですよ!?


クララのピアノの弟子 フローレンス・メイ(1845-1923) ※ブラームスの伝記を執筆

そしてクララのピアノの弟子たちの回想録で一番ページ数が多かったのはフローレンス・メイ(1845-1923)です。こちらではブラームスによるピアノの指導内容が他の誰よりも詳しく書かれてありますから、ピアノを弾く人はぜひ参考に。出会いはフローレンスが25,6歳、ブラームス38歳(※イメチェン前)。「まさしく男盛り」って、いきなり破壊力抜群な表現が!なんと彼女はブラームスの伝記まで執筆したそうで、こちらの回想録には数多くの思い出話に加え、フローレンスによるブラームス論が何度も出現します。例えば、彼の粗野と毒舌は意地悪から来るのではなく「うんざりするほど繊細でしかも激しい気性にフタをするための態度」と言い、イギリスに行かなかった理由についても字数を使って彼の芸術性の高さを唱え、渡英はそれに見合わなかったためと書いています。私はうんうんと頷きながら読みつつ、若干えこひいきが過ぎる印象も受けました。えっと、私が思うにフローレンスはブラームスに恋してますね(きっぱり)。例えば、ブラームスがドイツ語で「申し分ない(よく出来ている)」と言ったのを英語に訳してステージパパに伝える際(フローレンスはイギリス人)、フローレンスは「今日はあまり良くなかったって」と反対に言っています。ブラームスは不機嫌になり、フローレンスは訳し直しましたが、若い娘の「気になる人をあえて困らせたい本能」って一体なぜでしょうね。あと特筆すべきは匂いに関する記述です。好きでもない男のニオイって正直気持ち悪いと思うんですよね(私だけ?)。それを好ましく感じるということは、恋です間違いないです。フローレンスは、ブラームスに貸した楽譜にタバコの匂いが染みついて何年も残ったことで「楽譜の価値が一層高まった」(!)。レッスンの折に父親土産のコロンを勧めると、ブラームスはそれをつけながら「しかしこんなことをすると男じゃなくなるなあ」と言ったとも書いています。イメチェン前のあのきれいな顔でこんなこと言われたら、もうイチコロですよね!ブラームスは演奏会以外では人前で演奏をするのを嫌い、無理強いされれば弾き飛ばすような人でしたが、フローレンスの頼みで(クララ先生の名前を出す策士ぶり)、レッスンの最後には毎回演奏を聴かせてくれたそう。「『サラバンド』をヴァイオリンのように弾く」ブラームスの演奏を楽しみにしていたフローレンス。しかし一度だけブラームスが演奏を断ったことがあって、ここのやりとりは恋する乙女の立場で読むと胸がぎゅうっとなりますので機会があれば読んでみてください。うまく言い返せないフローレンスに英独辞書をひかせるとか、もうなんなのブラームス先生!フローレンスは精一杯強がってみても、乙女心はぐちゃぐちゃ、わかる!色々あったけど、数週間後にはブラームスに自作品「主題と変奏」(!クララに贈ったあの曲!?)を演奏してもらうことができ、フローレンスは震えるほど感激しています。その数日後に父親が様子見にきた際、はじめブラームスは別の作曲家の作品を弾こうとするも「だめだめ!」とフローレンスがおそらく片言のドイツ語で騒いで、根負けしたブラームスは「主題と変奏」を再度演奏。そんな「わが黄金の日々」で身につけた演奏技術と思い出を胸に、フローレンスはイギリスに帰国します。次にブラームスに会うのは約10年後の1881年、ベルリンにて。ブラームスが出演する演奏会があるのをたまたま知ったフローレンスは、通し券を買いリハーサルに潜り込みます。ブラームスがどこにも見当たらないと思ったら、イメチェン後の彼は既に舞台にいたというオチ。「懐かしき友には二度と会えない、との予感が形を変えて現実になった」って、ごめんなさい、私ここ笑いました。でもハンス・フォン・ビューローが感激してブラームスに突進しキスを浴びせたとき(!)、ブラームスは一瞬引きながらもされるがままとか、恰幅良いヒゲのおじさまだってカワイイじゃないですか!リハーサルの合間には、フローレンスとブラームスはお互いぎこちないながらも楽しく会話していて一安心。本番のレポートもあり、ソリストとしてのブラームスと指揮者としてのブラームスの両方について、ピアニストであるフローレンスの感想が読めます。ちなみに、まったく同じ演奏会を同じくイギリスから来たスタンフォード(第3巻に登場します)も聴いていて、感想を読み比べると面白いです。フローレンスはそれから4年をベルリンで過ごした後、ウィーンを訪れブラームスと再会。1894年と95年は避暑地イシュルでも会っています。晩年の穏やかな交流はとても素敵。他は楽しい思い出ばかりでしたが、フローレンスの何気ない質問にブラームスが「君には関係ないだろうが!」とつい大声を出したエピソードがありました。たとえ質問者にそのつもりはなくても、心の奥のデリケートな部分に触れるのは絶対にNGなんですね。親しい人でもうっかり地雷を踏んでしまうのですから、よく知らない人ならなおさらそうだったでしょう。ブラームスが年齢を重ねる毎に偏屈になっていった理由は、こんなところにあるのかもしれないと思いました。そしてこの章の末尾にはフローレンス執筆のブラームス伝記の冒頭部分が、別のページにはブラームス無名時代のレメーニとの演奏旅行で、調律が半音ズレたピアノをその場で半音ずらしながら弾いた逸話が掲載されていました。こちらの伝記の全訳があればぜひ読んでみたいです。


リヒャルト・ホイベルガー(1850-1914) 作曲家・音楽評論家

第2巻。作曲家で音楽評論家のリヒャルト・ホイベルガー(1850-1914)の章はこの回想録集の中で最もボリュームがあり、当時の音楽文化全般についてやそれに対するブラームスの考え方をリアルに知ることができる第一級の一次資料。必読です!期間は幅広く、ホイベルガーがブラームスを初めて演奏会で見かけた1867年から、1897年にブラームスが亡くなり、その後の1911年まで。初期の数年分は記憶を頼りに書いているものの、ブラームスから聞いた話をホイベルガーが都度メモするようになってからはより詳しくリアリティのある内容になっています。こちら、実名が出た上で遠慮無く語られるブラームスの発言の過激さゆえ、長い間日の目を見なかった「いわく付き」なのだとか。当のブラームスは自分の発言が事細かに記録されているとは長らく知らずにいて(知っていたらここまで爆弾発言はしないと思われます)、偶然知ったときには「プライバシーの侵害だ」と怒ったのだそう。その場はなんとか静め、本人にばれても記録をやめなかったホイベルガーさん、グッジョブです。ホイベルガーはハンスリックに近い立場の評論家でした。なおブラームスは、ハンスリックの70歳の誕生パーティーでスピーチ中に感極まり言葉に詰まってしまうほど、ハンスリックには感謝もしていたようです。ちなみに、この誕生パーティーではワーグナー派のゴルトマルク(第3巻に登場します)が「やらかし」ているのですが、ホイベルガーはそれには触れていません。そもそも出版を考えていない覚え書きであっても、人の失敗をあげへつらうことはしない。ホイベルガーは立派です。だからこそブラームスは、ハンスリックには言わないことでもホイベルガーには話したのだと思います。ホイベルガーは聞き出すのがうまい人で、本来は寡黙なブラームスが機嫌が良ければ饒舌になります。その話題は音楽家や音楽にとどまらず画家や文筆家、当時の政治状況など多岐にわたり、ブラームスの見識の広さには驚くばかり。毒舌ばかりではなく褒めてもいて、よく話題にのぼるワーグナーについてはその才能を讃えています。とはいえ、現在では忘れられている人を含め、同業者である音楽家には基本手厳しいです。文脈を無視して一部のみ切り取ると正しく伝わらないおそれがあるので引用はしませんが、例えば仲良しのヨハン・シュトラウス2世ドヴォルザークについても部分的には否定していますし、尊敬する大先輩のモーツァルトベートーヴェンシューベルトだって無条件で崇拝しているわけではないようです。ブラームスは聞かれれば本人にも直接ひどいことを言うようで、無謀にもブラームスに自作品を見てほしいと来た人は皆、人目を憚らず涙を流したり、激怒したり。それらをレポートするホイベルガーにも、若い頃ブラームスにコテンパンにされ、泣きながら帰宅した過去があります。それでもめげずに、後日何がまずいのか食い下がったホイベルガーは偉い!ブラームスは構成についてや歌曲の詩の選び方、拍節法など、極めて理論的に解説……これ最初に言ってあげればいいのに!しかし他の人がうまく聞き出さない限りは言えない、ブラームスは口下手なんでしょうね。ついキツイ物言いになってしまうのを本人も自覚はしていたものの、治せなかった模様。結果として人を傷つけてばかりいたブラームスですが、人物へのリスペクトはあったようです。一例として、音楽家協会が出すブルックナーへの感謝状の草稿がひどすぎて(担当は協会の秘書でブラームスの弟子であるイェンナー。第3巻最後に登場します)、ブラームスの指示で手直しさせた事がありました。曰く「ブルックナーと苦楽を共にする気はまったく無いけど、彼には敬意が払われて当然だよ」。印象的だったのは、独奏ヨアヒム・指揮ブラームスの「ヴァイオリン協奏曲」リハーサルで、オケがブラームスに従わなかった際、ヨアヒムが真剣に団員達に話をして事態が好転したエピソード。大家になってもその物言いのせいで大勢に反発されてしまう一方、彼を理解し助けてくれる昔からの親友がいるなんて、まさにブラームスらしい!あとは、ブラームス自身についての話も少しありました。若い頃はピアノだけでなくチェロも弾いていたが、楽器の盗難に遭いチェロはやめてしまった。ホルンを吹いたこともある……道理でブラームス作品ではチェロとホルンが良い仕事をしているんですね!ホルンに関しては、この頃既にバルブ付きのホルンは普及していたはずですが、ナチュラル・ホルンを推しています。ブラームスピアノ曲が「ピアニスティックでない」と言われる件は、だからこそピアノ向きで、作曲の際は常に演奏可能かどうかを考えていると説明し、「まあそれだけじゃ、たいしたことないけどね」。ホイベルガーが見せてもらった「ドイツレクイエム」の自筆譜は様々な種類の五線譜に書かれていたそうで、「この頃は貧乏のどん底で、友人たちから五線譜を借りるしかなかった」とブラームスは言います。ブラームス自身のを含め有名人の手紙が出版されている件には本気で怒り、晩年近くなって「クララとやりとりした手紙はお互い示し合わせて処分した」こともホイベルガーに打ち明けています。またこれは人伝に聞いた話だそうですが、ベートーヴェンの自筆譜を見たブラームスが、あの大作曲家でも「逆が正しいのかもしれない」と悩んでいるメモ書きを残していたのにショックを受けていたそう。そんなブラームスも、ある家を訪問したとき家政婦さんに浮浪者と間違われて追い返されたという、まるでベートーヴェンみたいなエピソードもありました。晩年、故郷の血が繋がった親族にはすべて先立たれ、「シューマン夫人だけが頼りだ」。そして不死とは「将来を子供に託すこと」。仕事熱心な上によく歩きよく食べ元気いっぱいだったブラームスが、病を発症し死に至るまでの約1年間の記述は読んでいてとてもつらかったです。それでも、体調が優れないのに演奏会に行ったり食事会で気の合う人達と話したりと、寝たきりになるまでは今までとほぼ変わらない生活をしています。死の直前まで意識ははっきりしていて、とっておきのワインをすすめられても夏に避暑地に持っていきたいと栓を開けなかったそう。そしてブラームスの死後、彼が常々「ホイベルガーの書いた音楽評論が一番好きだ」と話していたと、ホイベルガーはハンスリックから聞きます。もう、本人に直接言ってあげればよかったのに!しかしホイベルガーは、ブラームスから信頼されていることはずっと前からわかっていたのでしょう。「僕(ハンスリック)のが(一番好き)、と言ってくれなかったので、頭にきたけどね」と楽しそうに言ったハンスリックもきっと同じです。キツイ物言いのせいで敵を増やしたブラームスですが、彼の心根を知った人はやはり彼に惹かれるのだと思います。若い頃に毒舌の洗礼を受けたにもかかわらず、逆恨みするどころか30年もブラームスのそばにいたホイベルガーもそのひとり。ブラームスの言動を美化せず正直に記録し、第一級の一次資料を残してくださりありがとうございます!


マリア・フェリンガー(1849-1925) アマチュア楽家・写真家・画家

マリア・フェリンガー(1849-1925)撮影による「ブラームス写真館」の章は、いわゆる肖像写真ではなく普段のスナップがたくさん載っていました。私は初めて見る写真ばかり。全部ヒゲを生やした恰幅のよい晩年のブラームスです。次の章に登場する、リヒャルト・フェリンガー父子(マリアの夫および同名の子)と一緒の写真もありますし、第3巻の最後に登場するブラームス「唯一の作曲の弟子」であるグズタフ・イェンナーとの遠足の写真もあります。


リヒャルト・フェリンガー(子)(1872-1952) ブラームスの友人・フェリンガー夫妻の長男

リヒャルト・フェリンガー(子)(1872-1952)は、ブラームスと親しかったフェリンガー夫妻の長男。ブラームスとフェリンガー一家は、夏は同じ避暑地で過ごすことが多く、当時10代だったリヒャルトの目から見た避暑地でのブラームス、そしてウィーンでのブラームスとの思い出を綴っています。いくつかピックアップしてご紹介します。避暑地でブラームスの借家の隣が火事になったとき、ブラームスはバケツリレーに加わって消火活動にあたりました。リヒャルトがブラームスの楽譜を心配して借家の鍵を渡すように言っても、そんなのはいいからと鍵をくれず、リヒャルトは兄弟でドアを蹴破って楽譜の束を救出したのだそうです。また、地震があった後、リヒャルトの母マリアにブラームスは「(地震が怖いから)今夜はベッドに入らず草むらに転がって寝る」と言ったそう。地震が怖い!わかる!当時15歳のリヒャルトがヘルミーネ・シュピース(ブラームスが懇意にしていた女性歌手)に恋した話は切なかったです。リヒャルトは後から聞いた話だそうですが、彼の恋心に気付いたヘルミーネがマリアに、リヒャルトへと名刺を渡したそう。その裏にはブラームスの歌曲にある歌詞「乳臭いぼうや、なに私を見てるの?」が書いてあったと。ブラームスが見つけ、即「ご子息に渡してはダメ」とマリアに言って、ヘルミーネはブラームスに叱られた様子だったそう。ブラームスはこんなデリカシーはわかる人のようです。それにしてもヘルミーネたん、オイタが過ぎますわよ……。あとは、ブラ1に20年超かかったことばかりが注目されるブラームスが、ブラ4を保養地で一気に仕上げたのは1週間ほどだったとか、有名な蓄音機への録音(ブラームスは自分が弾いているのに「演奏はフェリンガー博士夫人!」と言ったそう)のレポとか、ブラームスのウィーンの家にサプライズで当時(1892年4月)はまだ珍しい電気照明を取り付けたらブラームスがとても喜んだとか、そんな楽しい話題が色々書かれていました。


オイゲーニエ・シューマン(1851-1938) シューマン家の四女

第3巻。シューマン家の四女、オイゲーニエ・シューマン(1851-1938)が登場しました。父ローベルトの入院当時、オイゲーニエは3歳。回想の内容は、1872年ブラームスにピアノを教わることになってからクララの葬儀までの間に起きた出来事で、少女時代は含まれません。こちらのオイゲーニエの章、しみじみ良い回想録でした。クララとブラームスを見つめるオイゲーニエの眼差しはとても優しい。良いことも悪いこともあのままに書き、変に美化はしないのですが、そのときの二人それぞれの気持ちを考え、思いやりのある言葉で寄り添っています。そして文章がとっても素敵!例えばこんな記述。

「君たちのお母さんは」と言うブラームスが好きだった。その青い目には、純粋さと穏やかさが表れていた。子供たちは、若々しく男らしい、生粋のドイツ人ブラームスが好きだった。また誠実で頼もしく、頭脳明晰なブラームスも好きだった。でも母を大切にしてくれたのが一番好きだった。人生の中で疑いをもったことは数々あるけれど、ブラームスの誠実さだけは疑ったことはない。

もちろん日本語訳なので、原文とはリズムや言葉の印象が違うことは理解しています。それでもこの読む人の心にじわりと染み入る感じ、私はとても好きです。嘘くささは微塵も感じられない普段着の言葉で、こんなに心に響く文章が書けるんですね。私は素人ですが、こんな文章にあこがれます。本題に入ります。シューマン家の子供達にとって、ブラームスは家族同然でまったく気を遣わない相手だったそう。ただ、ブラームスのほうはクララの娘達に対して結構気を遣っているように私は感じました。例えば、娘2人に部屋の隅に追い詰められ通せんぼされてあることを問い詰められたとき、ブラームスはしどろもどろになりながらもさっさと折れています。いつもお土産は相手のことを思い熟慮して選ぶブラームスが、考えすぎた結果一体どこで見つけたんだと思うような「いやげもの」を買ってきたりするのはご愛敬。そして私が最も衝撃を受けたのは、大切な存在であるはずのクララに対し、ブラームスは時にきつくあたったことです。オイゲーニエによると、芸術家は「閃き」という気まぐれな女神の奴隷で休息が与えられないのだから、創作中の言動を大目に見てもらえるのは才能に対するささやかなご褒美。しかし箱入り育ちのクララは、頭ではわかっていても、ブラームスのそんなひどい態度には耐えられなかったようです。クララが目にいっぱい涙をためたときなどは「他の人は傷付けられても、自分で自分の面倒を見られる。でも母は!」と娘達は怒り、抗議しています。それでもなお、オイゲーニエは「彼の中に小悪魔が住み着いている。人間というものは、甘えられる相手にはそんなものをけしかけてしまうのか。彼の場合そうなのだ」、「ブラームスは誤って人を傷付けた。でも自分の傷のほうが大きかったはずだ」と、ブラームスの気持ちにも寄り添っています。この一連の記述、私はとても胸が苦しくなりました。もう、もう、甘え方を知らないにも程があるでしょブラームスさん!外では「鎧」をまとって弱味なんか見せずに振る舞っていたとしても、心許せる相手には素直に弱いところをさらけ出してもいいのでは?とはいえクララ以外の人に対して「あたる」ことはなかったわけですから、これが一番大切な人に対してブラームスができる精一杯の甘え方だったのですよね。ああ、本当にもう!もちろん長い付き合いですから色々あって当然ですが、こんなつらいことばかりでなく楽しい思い出話の方が圧倒的に多かったのでご安心を。音楽に関するエピソードも多く、その一つとしてブラームスがオイゲーニエを巻き込み、音楽家ならではの「大がかりないたずら」をクララ対して仕掛けた話がありました。クララの旧姓が印刷された五線譜を入手したブラームスが、自分が作曲した曲(後に出版されたop.76の中の1曲と推測されるそう)を書き込み(写譜を外注する念の入れよう)、ママが昔作った曲が見つかったと言ってオイゲーニエからクララに渡す計画。何度か手紙をやり取りして入念な準備をしています。いざ曲を見たクララは「これは非凡なんてものではないわ。書いたのは私じゃない。パパかもしれないし、部分的にはブラームスかもしれない」。オイゲーニエによると、クララは日常生活では簡単に引っかかっていたので(←え?実は天然?)、ブラームスの普段のいたずらはいつも成功していたそうです(←えっえっ?何をしたの?)が、音楽に関してはそうではなかったと。ピアノの教え方については「母(クララ)は主に創造力と感性を、ブラームスは知性を刺激」したとオイゲーニエ。指導内容についても具体的に書かれています。時々ブラームスがレッスンを引き受けていたクララの弟子達もそれぞれ上達していますし、やはりブラームスはピアノを教えるスキルは確かだったようです。人が集まれば私的な演奏会が開かれます。ブラームスがピアノ演奏中、クララが娘達に「卵の上を歩くような」演奏箇所があると教え、注意深く聴いていたところ、彼はその部分で実際にペースを落として「卵の上をつま先立ちで歩いた」。クララが亡くなる前、ブラームスが最後に訪ねてきたときは、クララがブラームスのop.118を演奏し「お母さんが、最高の演奏を聴かせてくれたんだよ」とブラームスは喜びます。クララとブラームスは、いつものようにハグとキスで別れ再会を誓うも、叶わず。オイゲーニエが最後にブラームスを見たのは、彼がクララの墓に佇んでいる姿でした。「母の人生が一番大変だった時期、ブラームスの友情にどれほどの意味があったのか、私はその頃知りもしなかった」というオイゲーニエ。幼い頃から母クララとブラームスおじさんの交流をずっと見守り、「彼らの友情は、厳しい試練を経ている。それが最後まで続いたのは本物の証である」と見届け、それを美しい文章で書き残してくれました。良いものを読ませて頂きました。本当にありがとうございます。


ヨーゼフ・ヴィトマン(1842-1911) 文学者 ※ブラームスとオペラ、イタリアのブラームス

スイスの文学者ヨーゼフ・ヴィトマン(1842-1911)の回想には、他の人の回想では出てこない特ダネがたくさんありました。まずはオペラについて。ブラームスがオペラを書くことに興味を持った時期に、台本の候補を一緒に探したのがヴィトマンです。計画がまったく具体的になっていない段階で、複数の新聞に「ヴィトマンが台本を提供し、ブラームスがオペラを作っている」と変なことを書かれてしまいます。当時の新聞は滅茶苦茶で、ブラームスが亡くなって10日も経たないうちに、「ブラームスへの架空のインタビュー記事(!)」が掲載されたそうです。内容は、ブラームスの音楽の性質から「彼はオペラを書く気は端からなかった」と、ありがちな捏造。ヴィトマンはそれを否定した上で、実際のところを語っています。要はブラームスの理想に合う原作が見つからなかったらしいです。そもそもブラームスは自他共に認める「劇場通い」で、オペラの内容を分析して熱く語るのが好きだったそう。何よりブラームスは自らを「最高のワーグナーファン」と称し、「ワーグナーのスコアを同時代の誰よりも深く読んでいた」とヴィトマンは言います。ちなみにブラームス自身は、全体に音楽を付けるのではなく、ここぞという場面に音楽を使うべきと考えていました。音楽家はそこで存分に腕を振るえるし、台本作家はドラマを進行させる余裕と自由が生まれると。私なんかはオペラのストーリーなんてどれもひっどいものばかりだと思うのですが、ブラームスはお話の内容にもこだわり、候補の原作に対してやれ「主題の割には全編が陳腐」だの「『魔笛』の二番煎じになって時代遅れになるかも」だのと厳しいです。結局、ブラームスはヴィトマン宛ての手紙で「オペラと結婚にはもう手を出さない」と「ご立派な決意」を表明して、オペラの件はおしまい。誰も聞いてないのに「結婚」に触れること自体、結婚に未練たらたらなんじゃないかと誰でもそう思いますよね。その「結婚」についてもヴィトマンはブラームスの考えを聞き出しています。曰く、結婚したかった時期は、会場で作品をやじられていた頃で、でも自分はいずれ形勢逆転できると思っていたからみじめではなかった。ただそんな時もし家に妻がいたら、妻は夫を慰めようとする。「そんなおそろしいこと、考えただけでぞっとする」のだそう。ああ、やっぱりブラームスって甘え方を知らない人なんですね……私、そんなあなたを何も言わずに抱きしめてさしあげたい(真顔)。ブラームスは「これでよかったんだ」と言い、結婚の件もひとまずはおしまい。特ダネエピソードは色々あって、ブラームス愛国心の深さ、電気やエジソンの蓄音機などの近代文明の脅威は最大級に賞賛(ただし自転車は大嫌い)、新たに発見されたベートーヴェンの手紙が出版されその性格の悪さが露呈したときは「できれば知らずにいたかった」。他にも、「何か書きたかったら、シューマン夫人のような女性が喜んで読んでくれるかどうか考えるんだね。怪しいと思ったら、抹消だよ」と音楽家ではないヴィトマンに対して言う、自分(ブラームス)のヒゲの写真が「コーカサス系白人人種の実例」として教科書に載ったと喜ぶ、行方不明になった愛犬が自力で戻ってきて大喜び、などなど、興味深い話題がてんこ盛りでした。そしてイタリア大好きブラームスと三度も旅行に同行したヴィトマン。そのイタリアでの旅行記も面白かったです。各地での見聞録は本書をお読み頂くとして、ブラームスの振る舞いで私の印象に残ったことを少しだけ書きます。ブラームスプロテスタントで、カトリックの「坊さん」はキライ。しかし、現地の人達の信仰心は尊重してカトリックの教会に入るときはきちんと作法にのっとり十字を切ったのだそう。ナポリでヴィトマンが骨折したときは献身的に介護し「もしも切るなんてことになったら僕が担当してやるからな。なんたってビルロート(ブラームスの友人で医師。この人ともよく一緒にイタリア旅行しています)が手術するとき、いつだって助手をしているんだから」。お気持ちはありがたいですが、音楽家に手術されるなんて、私なら全力でお断りしたいです(笑)。あとは、ブラームスは「ハンブルク生まれのくせに船酔いする」とか、「山道の登りは遅いが下りは早すぎて一人でどんどん先に行き、迷子になって(※方向音痴ここでも)、危険な岩場を必死に下りようとしていたのを現地の人に救出された」とか。ヴィトマンのブラームスに関する記述は、素晴らしいところが9割5分でも、あとの5分で愛されキャラ的な少し抜けているところをこそっと混ぜてあるのがかえって目を引きました。末尾にはヴィトマンの詩が2編。ヴィトマンの幼い娘とのチュウの詩では、ブラームスがヴィトマンの子をとてもかわいがっていたことがうかがえます。本編でも、ブラームスが当時5歳のヴィトマンの娘をおんぶして楽しそうに街中を駆ける話がありました。大の子供好きであるブラームスは、いつもポケットにキャンディをいっぱい詰めて、スイスでもイタリアでも子供達と楽しく遊んでいたのだそう。もう一つの詩は、なんとブラームスのヴァイオリン・ソナタ第2番につけた歌詞!日本語訳だとこのままでは歌えないのが少し残念。訳す前の原文で誰か歌ってほしいです。オペラの原作探しでのブラームスのこだわりを知っているヴィトマンは、「自分の詩に曲を付けてもらいたい、などと思わないよう心がけた」と書いていました。しかし本当は、ブラームスの曲で自分の詩が歌われることに憧れていたのかもしれませんね。


カール・ゴルトマルク(1830-1915) 作曲家・ワーグナー支持の執筆家

作曲家カール・ゴルトマルク(1830-1915)は、ウィーン・ワーグナー協会設立者の一人で、ワーグナー支持の執筆家としても活躍。あのハンスリックとは対立する立場にあったのだそうです。「二人(ゴルトマルクとブラームス)の感性も気質も、水と油のように違う」というゴルトマルクですが、ブラームスとはお互い若い頃に知り合い、時々ケンカしながらもブラームスが亡くなるまで30年超の付き合いが続きました。ブラームスが移り住んだばかりの頃、ウィーンではブラームスの音楽は悪評の方が勝っていたのだそう。フィルハーモニーで「セレナード」のリハーサル中、オケが気に入らない様子でざわつきはじめると、ブラームスは指揮台にあがって「みなさんよろしいですか、私はベートーヴェンじゃありません。ヨハネス・ブラームスなんです」……私なんかはこんな話を聞くと、若い頃のブラームスの苦悩を想像して胸が苦しくなります。早い段階からベートーヴェンの後継者と見られたため、内心はきっとプレッシャーに押しつぶされそうになっていて、ハッタリ込みでも自信満々の態度を取らなきゃやってられなかったんじゃないかと。ゴルトマルクによると、ブラームスの強い自信は周りにインパクトを与え、影響力抜群の批評家達がブラームスの軍門に降っていったとか。ハンスリックに関しては「ブラームスのことをろくに知らないのに」と手厳しいです。ブラームスは器が大きく誠実で嘘がつけない人格者である一方、がさつで誰に対してもキツイ言葉を吐くとゴルトマルクは言います。しかしブラームスの欠点とも言える口の悪ささえハンスリックらは高尚と褒めており、ゴルトマルクは違和感を覚えたようです。なおハンスリックの70歳の誕生パーティーになぜかゴルトマルクは出席しているのですが、スピーチでうっかり誤解を招く発言をして場を凍らせる「やらかし」をしてしまったようです。そんな自分の失敗を隠さずに出版物に書けるゴルトマルク、私は好きですよ。色々あったエピソードの中でも、ブラームスが自作品についてゴルトマルクに感想を求めた件が面白かったです。私的な演奏会で、大勢の招待客がブラームスを囲んで大絶賛するのを横目で見ながら、その時は何も言わなかったゴルトマルク。翌朝散歩に誘われて、微妙な会話をしながら歩く……ブラームスも「感想を聞かせて」と一言言えば良いのに、すねちゃって言わないんです。ブラームスさん、あなたは子供ですか(笑)。でもゴルトマルクはブラームスが感想を欲しがっているとわかって、「いやな思いをさせた」と反省しています。ゴルトマルクさんは大人ですね。この感想の件は、私にも少しだけわかる気がしました。ブラームスなら何でも大喜びする熱狂的ファンのベタ褒めよりも、ワーグナー支持者であるゴルトマルクの率直な感想のほうがありがたいはず。そして、やはりゴルトマルクのことを作曲家として信頼していたのだとも思います。ちなみにブラームスは「ゴルトマルクの音楽なんか嫌い、でも彼のことは作曲家として認めている」と、ある人物に語っています。ブラームスは、ゴルトマルク本人に対しては不愉快なことも言うのに、批評家の身勝手なゴルトマルク批評については自分のことのように怒りました。またブラームスは、ゴルトマルクが若い頃無記名で応募した交響曲をウィーン楽友協会で見つけ出して本人に戻し、ゴルトマルクは改訂を加えて出版しています。ブラームスが寝たきりになる直前まで、外で一緒に食事をしたゴルトマルク。反ワーグナー派の旗印にされたブラームスですが、ワーグナー派のゴルトマルクのような友がいたんですね。「水と油」でも、お互いに認め合い信頼し合えた関係。ステキじゃないですか!


チャールズ・ヴィリアーズ・スタンフォード(1852-1924) 作曲家 ※ブラームス交響曲第1番のイギリス初演を手がける

アイルランド系作曲家のチャールズ・ヴィリアーズ・スタンフォード(1852-1924)は、ブラームス交響曲第1番のイギリス初演を手がけ、イギリスにブラームスの音楽を広めた立役者とも言える人物。教育者としても一流で、門下にはヴォーン=ウィリアムズやホルストなどがいるそうです。なおこの回想録には書かれていないことですが、イギリスといえば、クララのイギリス演奏旅行計画に20代前半のブラームスが猛反対している手紙があるのを思い出しました。色々書いていても、要は海を渡ってそんな遠くに行くのは危ないからやめてほしいという趣旨。それでもクララはイギリス行きを決行しその後何度もイギリスを訪れます。一方のブラームスは、スタンフォードも再三ラブコールしたにもかからわず、生涯海を渡ることはありませんでした。スタンフォードブラームスの音楽に出会ったのは、まだアイルランドに住んでいた15歳の頃。「ヘンデルの主題による変奏曲」に深く感動して、なけなしの小遣いでブラームスの作品を買いあさったそう。成長したスタンフォードブラームス本人を初めて見かけたのは、初めて海外に渡った1873年シューマン・フェスティバル(ボンで開催され、音楽監督はヨアヒム)。「ボンそのものが音楽祭にうってつけの街」という一方、下水設備がなくて街が猛烈に臭いというトリビアもありました。その後何度もヨーロッパ本土に来ているスタンフォードは、ブラームスがピアノ協奏曲でソリストをしたときの演奏ぶりや、指揮者としての指揮のやり方等もレポートしており、それらの記述も興味深かったです。そしてイギリスでのブラ1初演の準備を進めていた1877年、ブラームス本人の訪英がナシになる「手痛い絶望」。理由は、ブラームス訪英の噂が恐ろしい勢いで広まり、大ホールがブラームス本人の指揮を希望と正式表明したことに、名士扱いされるのを嫌うブラームスがへそを曲げたことになっています。しかしスタンフォードも「格好の理由」と薄々気付いているように、おそらくブラームス本人はどうしてもイギリスに渡りたくなかったのが本当のところかと。そもそも訪英をしぶしぶ承諾させるのも大変だったようで「ヨアヒムの後押しと、シューマン夫人の上手なご機嫌取り」でその気にさせたとのこと。んもう手がかかるんだから(笑)!結局イギリス初演はヨアヒムが指揮をし、「この国にブラームスの名前が永遠に刻まれた」。ヨアヒムは手紙でブラームスに万事うまくいった旨も伝えており、「これほどの親友を持つ作曲家は絶対にいないだろう」と、スタンフォードはヨアヒムを大絶賛。ブラームスに相棒ヨアヒムがいてくれて本当によかったと私も思います。スタンフォードは、ケンブリッジでの初演成功はヨアヒムの勲章と言い、イギリスでブラームスの音楽が瞬く間に広まったのは「ドイツと違い、ワーグナー派対反ワーグナー派という熾烈な争いがなかったせいもある」と言っています。どこまでも謙虚なスタンフォードですが、彼がいなければイギリスでブラームスの音楽がメジャーになることはなかったかもしれません。そしてブラームスにまつわるスタンフォードの言動は、後に続いたイギリス人作曲家たち(ブラームスを尊敬していたというエルガー等)の作風にも少なからず影響を与えたはずです。スタンフォードによると、大物と言われる人物は身を守るための鎧を着けていて、ブラームスの場合それは「無作法」。しかし鎧を脱ぐと子供のように純粋だとのこと。ブラームスは、ミーハーな人が寄ってきたら「兄ならあの丘にいる」と架空の兄弟を使ってかわし、偉大な作曲家の健康を祝してと言われれば「モーツァルトの健康に乾杯!」。スタンフォード自身も、ウィーンのブラームスの家を訪ねたとき、ブラームスに試されています。客用の葉巻の箱をブラームスがひったくり「イギリス人だから、タバコは吸わんね!」。スタンフォードは、勇気を振り絞り「誠に失礼ながら、イギリス人もタバコを吸いますし、たまには作曲だってするんです」と返すと、ブラームスは笑い転げて、「氷は溶け、もう固まらなかった」。「15歳のとき夢中になった気持ちは、現在もまったく変わらない。卑しくも音楽家ならば心底惚れ込んだ心を生涯持ち続けるのではないだろうか」というスタンフォード、彼もまた子供のように純粋なのだと思います。ただブラームスとは違い、鎧で武装せず、気難しい人物にも自ら歩み寄ることができる人でした。そんな人が、ブラームスの音楽に惚れ込み、海を渡ってブラームスに会いにきてその頑なな心を開かせ、広く海外へブラームスの音楽を広めるきっかけをつくってくれたのです。いちブラームスファンとしては感謝しかありません。


エセル・スマイス(1858-1944) 作曲家・女権運動家

その「奔放」な文章に編者が匙を投げ、数人ががりで訳したという比較的短い章に登場するのは、イギリス人の女性作曲家で女権運動家エセル・スマイス(1858-1944)。当時のドイツは「女の居場所は子供部屋、教会、台所だけ」という時代。念のためお断りしておきますが、私は女性の権利を獲得するために地道な活動を続けてきた諸先輩方には大変感謝しています。でも私、エセル・スマイスという人物はフェミニズム関係なく「人として」無理です。この人の「人物を見る目」が私には絶対無理。もしこんな人にリアルでうっかり知り合ったら速やかに距離を置きます。多面性がある人の何気ない行動を、自分の曇った色眼鏡でつぶさに観察して、見えた範囲だけで「この人はこうだ」と決めてかかるおぞましさ。人格や心を持つ人の失敗や苦しみや悲しみを、愉快でたまらないように書き綴る底意地の悪さ。まるで採集した虫をカゴにいれて、自分は高い位置からニヤニヤ見下ろしている感じでぞっとします。自分も同じ人間なのに!そして彼女の見方自体も「男は」「ドイツ人は」とまあ偏見強すぎて、もうどこからツッコめばいいやら。だからフェミはましてや女は、なんて勘違いする読者がいませんように。男女関係なくこんな人はいますからね。純粋で正直な愛すべき情熱家である天才音楽家がこんな人の餌食になり、しかも出版物に不名誉なことを書かれるなんて、世の中って理不尽。本当はこの人の文章一つ一つに反論したいところですが、それだけで字数食うのもなんなので、一部をピックアップして書きたいと思います。なおブラームスに限らず当時のドイツで一般的だった女性蔑視については、現代的な価値観では語れないと私は考えますので、女性差別的な言動の是非はここでは論じません。1878年ヘンシェル(※第1巻に登場した面白いあの人)の紹介でブラームスと出会ったスマイス。ブラームスの「このお嬢さんかね、対位法を知らないのにソナタが作曲できるというのは!」をそのときは皮肉とは思わず、そのキリッとした表情と青い目にクラクラしたのだそう。しかし直後の「どうせヘンシェルが、自分で書いたんだろう」との発言が引っかかったようです。自作品をベースに理論的な質問をしたときも小娘扱いされたと感じ、自分が普通の男性なら心にもない言葉で持ち上げてくれたはず、と彼女は言います……いえそれはないですよ。ブラームスは相手が男でも褒めないですからね。誰か教えてやって!彼女は元々ブラームスの作品が好きで、ピアノを弾くブラームスが一番好きと言い、その人柄の良さや謙虚さを褒めてもいるんです。それでもブラームスの女性蔑視(おそらく当時のドイツではごく一般的)がとにかく許せず、攻撃材料がほしいのか彼の失敗や鼻を明かしてやった出来事等、いやなことを色々と書き綴っています。女性蔑視にNOは良いとしても、気に入らない人について徹底的にあら探しして人格攻撃するって最低。スマイスによると、ブラームスは一般女性には無礼な態度を取るのに、美人なら「ねめ回す(!)」ように見るのだそう。「ねめ回す」って日本語に私は驚いて、訳す前はどんな言葉で書かれていたのかちょっとだけ気になりました。まあ、「ねめ回す」こと自体には驚きはなかったです。私は音楽の専門家ではないので正しくはわからないですし、普段こんな言葉使わないから適切かどうか自信ないですが、その音楽を聴く限りたぶんブラームスってドスケベなんじゃないかと前から思ってましたから(全世界のブラームスファンの皆様ごめんなさい!)。それくらいでなきゃ、あんな女心をかき乱す曲は書けませんって。そんなブラームスは、クララやその娘達など「別格」扱いの女性達には大変紳士的な態度をとるのだそう。またスマイスに対しては優しく、父親のようにぎこちない接し方をしたとのこと。ブラームスにとって大切なリーズルという女性とスマイスが親しかったから、とスマイスは分析しています。もしそうだったとしても、彼の性格から考える限り、スマイスの扱いはかなり無理していると思われます。想像するだけでつらい。ここで登場したリーズルとは、スマイスが師事した音楽家の妻で、自身も音楽の才能があった女性です。お料理上手で、時折訪ねてくるブラームスの胃袋を完全に掴んでいます。そんなリーズルをスマイスは「男性にちやほやされ、他の女性の屈辱的立場に抗議しない、ハーレムのナンバーワンの態度」とバッサリ……ひどすぎ。本人に言わなきゃいいってそんな問題じゃないですよ。リーズルは、置かれた立場で懸命に家族や客人をもてなす立派な女性じゃないですか。そんな「親しい友」に対して、よくもまあこんな上から目線かつ下品な言葉でレッテル貼りできますね!リーズルとは音楽の感性が同じで意気投合したとスマイスは言ってますが、違うと思います。夫の大事なお弟子さんだから、リーズルは話を合わせてあげたんですよきっと。こんなの友達なんかじゃない絶対に!スマイスのひどいバイアスがかかった記述にはいちいちうんざりさせられますが、彼女が言う「そもそも回想録の意義は、自分が見聞きしたことを書くことにあり、他人がこう言った、本にこう書かれていた、後でどう考えたかではないと思う」には私も同意します。しかし、その記述のほんの数行後に「(ブラームスは)寝たきりになると、死にたくないと子供のように泣きじゃくったという」と、伝聞(=自分が見聞きしたわけじゃない)を堂々と書いているのが、もうどうしようもない。そして人の死をあまりに軽んじた末尾の文は、引用したくないのでしませんが、もう怒る気にすらなれない。私、エセル・スマイスの章だけは二度と読みません。


グズタフ・イェンナー(1865-1920) ブラームス唯一の作曲の弟子

トリを飾るのは、ブラームス「唯一の作曲の弟子」であるグズタフ・イェンナー(1865-1920)です。作曲家として作品多数を残し、最終的には大学の名誉教授となった人物。ハンブルクブラームスの恩師マルクスゼンに習ったこともあり、それがブラームスとの縁となったようです。面白いなと思ったのは、イェンナーはブラームスに初対面した後、チャイコフスキーにも会っているんですね。同じ作品を見せたのに、チャイコフスキーブラームスとはまるで違う部分の指摘をしたんだそう。物腰柔らかなチャイコフスキーが自分の所に来るよう誘ってくれたにもかかわらず、イェンナーはブラームスに「曲げて、私を弟子にしてほしい」と手紙を書きます。「ブラームスは作品の土台そのものを鷲掴みにし、確かな目で構造上の弱点を明らかにした」と感じ取った23歳のイェンナー。ブラームスからOKの返事をもらうと、旅費を友人達に援助してもらい、いざウィーンへ。師は一緒に下宿探しをして、食器類を一通り揃えてあげて、「蔵書は閲覧自由、貯金も必要なだけ使って良い」。しかしイェンナーは師のお金には手をつけなかった、音楽家には珍しい真人間です(?)。リーズナブルな「赤いハリネズミ」で一緒に食事するのも、お金が続かなくてすぐにやめたそう。師に甘えてゴチになればいいのに、そんなことはできない人なんですね。修行の進め方は、ブラームスが重視する対位法は別の先生を紹介され、ブラームス自身は作曲の指導とあらゆるコネ作りへの協力。コネ作りや生活面については、ブラームスは大変面倒見が良い師だなという印象です。ブラームスがイェンナーをどこにでも連れて行って様々な人に紹介してくれたおかげで、若き無名の作曲家は地位や収入を得ることができました。ブラームスは弟子の結婚の心配をしてあげて、それで自分の結婚に関するもろもろを思い出して一人でぷんすこしているところなんて、めっちゃカワイイです。一方、作曲の指導はというと……はっきり言って向いていないんじゃないかと素人目には感じました。絶対に褒めないタイプの師で、しかも言うことが厳しすぎ。イェンナーがまだ入門したての頃、ブラームスは天才シューマンが18歳で書いた自筆譜を見せて、弟子を「才能なし」と突き放しています。控えめに言って鬼。イェンナーは落ち込んで、しばらくは対位法の勉強にも身が入らず作曲も進まず、ただ生活に追われる日々を過ごすことに。そしてせっかくの渾身の作品を見せたときだって、「ペンはさーっと線を引いて消すためにもある」とか、「全部見る気は無い。そのために暖炉がある」とか。ブラームス自身が少しでも難アリと自己判断した自作品をいくつも暖炉の火にくべた人だからとわかってはいても、やっぱり相当キツイ。お世辞でもいいから少しくらい褒めてあげてもいいのに、と外野は思いますが、そんなことはしないのがまさにブラームス「らしい」んですよね。また「雄弁な人は自分の言葉に酔うことがあるけれど、彼(ブラームス)は正反対で、必要となったとき仕方なく口を開く」とイェンナーが言うように、ブラームスの指導は詳細に解説するスタイルではなかった様子。そんなブラームス先生の発言内容については、「変奏曲をやるのが一番お利口」「シューベルトの歌曲ならどんなものでも何か学べる」「低音(バス)は旋律より大事」など、素人の私でも「お?」と思うものはたくさんありました。なおイェンナーが師のご近所に住み、泣きながらも足繁く通った内弟子時代は1年強ほどで、彼は兵役のためいったんウィーンを離れることになります。「君くらい若ければついていくんだがなあ」と、ブラームス愛国主義者の一面がうかがえる発言も。兵役を経た後、イェンナーは毎年夏にブラームスが過ごす保養地に出向いて交流を続けたとのこと。その田舎での逸話も色々ありましたが、いずれも良い思い出ばかりでした。そして章の後半はイェンナーによる音楽論になっています。「ブラームスの存在は、ワーグナーの概念に対する生ける抗議」「ブラームスソナタという形式に再び生気を吹き込んだ」等、興味深い記述がいくつもありました。ただ、イェンナーには申し訳ないですが、個人的にはブラームスの音楽論ならブラームス本人が書いたものを読みたかったです。もっとも自分自身や自作品について語ることを好まなかったブラームスですから、そんなのは残していないのがまさしくブラームス「らしい」。しかしイェンナーの立場で考えると、彼はブラームスの弟子として、師の音楽がどのようなものかを書き残しておく責任があると考えたのかもしれませんね。これは生真面目なイェンナーらしさだと思います。優しい言葉をかけてくれる師を選ぶことだってできたのに、自らの意思で厳しいブラームスに弟子入りしたイェンナー。師の音楽論を書いたことを、たとえ天国で再会したブラームス先生に「君はこんな間抜けなことをするために僕の弟子になったのか?」なんて叱られたとしても、めげずにまた一緒に散歩を楽しんでいそうです。


最後までおつきあい頂きありがとうございました。